とうは私自費出版にしたいと思うんですけれど、そのお金ができそうもないものですから。」
「そうね、僕も心配はしてみるけれど……。」
 庸三は暗然とした気持で、彼女の生活を思いやるだけであった。
「先生も大変ですね。お子さまが多くて……。梢さんどうなさいましたの。」
「葉子は今田舎にいますけど……。」
「私のようなものでよかったら、お子さんのお世話してあげたいと思いますけれど。」
「貴女《あなた》がね。それは有難いですが……。事によるとお願いするかも知れません。」
「ええいつでも……。」
 彼女は机の上にひろげた詩稿を纏《まと》めて帰って行った。
 彼はその日のうちに葉子に手紙を書いた。その詩を讃《ほ》めると同時に、子供の世話を頼もうかと思っている云々《うんぬん》と。すると三日目に葉子から返事がとどいて、長々しい手紙で、少しいきり立った文句で、それに反対の意見を書いて来た。でなくとも、女給をして来た人では、庸三の家政はどうかという意見もほかの人から出たので、彼もそれは思い止《とど》まることにした。
 庸三は風呂《ふろ》で汗を流してから、いつもの風通しのいい小間で、小夜子とその話をしていた。
 この水辺の意気造りの家も、水があるだけに、来たてにはひどく感じがよかったが、だんだん来つけてみると、彼女の前生活を語るようなもろもろの道具――例えば二十五人の人夫の手で据《す》えつけたという、日本へ渡って来た最大の独逸《ドイツ》製金庫の二つのうちの一つだという金庫なぞがそれで、何かそこらの有閑マダムのような雰囲気《ふんいき》ではあったが、室内の装飾などは、何といってもあまり感じのいいものではなかった。
「そのうち追々取り換えるんだね。」
 庸三は窓際《まどぎわ》に臥《ね》そべっていた。小夜子も彼の頭とほとんど垂直に顔をもって来て、そこに長くなっていた。そうして話していると、彼女の目に何か異様な凄《すご》いものが走るのであった。
「私芝にいた時、ちょうど先生にお目にかかった時分、こういうことがあったんです。」
 小夜子は語るのであった。
「ある人がね、私は麹町《こうじまち》の屋敷を出たばかりで、方針もまだ決まらない時分なの。するとその人がね、君ももう三十を過ぎて、いろんなことをやって来ている。鯛《たい》でいえば舐《ねぶ》りかすのあらみたいなもんだから、いい加減見切りをつけて、安く売っ
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