あるのかい。」
「あすこは聖天《しょうでん》さまが祀《まつ》ってあるんですの。あらたかな神さまですわ。舟で行くといいんですけれど。」
 お昼ちかくになってから、不断着のままの小夜子と同乗して、庸三もお山の下まで附き合った。そしてタキシイのなかでお山の段々から彼女の降りて来るのを待っていたが、それからも彼は二三度お詣りのお伴《とも》をして、ある時は段々をあがって、香煙の立ち昇っている御堂近くまで行ってみたこともあった。

 ある日も庸三はこの水辺の家へタキシイを乗りつけた。
 彼は三日目くらいには田舎《いなか》にいる葉子に手紙を書いた。書いたまま出さないのもあったが、大抵は投函《とうかん》した。もう幾本葉子の手許《てもと》にあるかなぞと彼は計算してみた。いずれいつかはそっくり取り返してしまうつもりであったし――またほとんど一本も残らずある機会に巧く言いくるめて取りあげてしまったのであったが、そんな予想をもちながらも、やはり書かないわけに行かなかった。今まで気もつかなかった、変に捻《ねじ》けた自我がそこに発見された。葉子を脅《おど》かすようなことも時には熱情的に書きかねないのであった。葉子のような文学かぶれのした女を楽しましめるような手紙は、無論彼には不得手でもあったし、気恥ずかしくもあった。
 そうした時、ある日陰気な書斎に独りいるところへ、一人の女流詩人が詩の草稿をもって訪ねて来た。年の若い体の小さいその女流詩人は、見たところ小ざっぱりした身装《みなり》もしていなかったが、感じは悪くなかった。彼女の現在は神楽坂《かぐらざか》の女給であったが、その前にしばらく庸三の親友の郊外の家で、家事に働いていたこともあった。彼女は今絶望のどん底にあるものらしかったが、客にサアビスする隙々《ひまひま》に、詩作に耽《ふけ》るのであった。毎日々々の生活が、やがて彼女の歔欷《すすりなき》の詩であり、酷《むご》い運命の行進曲であった。
 彼女の持ち込んだ詩稿のなかにはすでに印刷されているものも沢山あったが、庸三はその一つ二つを読んでいるうちに、詩のわからない彼ではあったが、何か彼女の魂の苦しみに触れるような感じがして、つい目頭《めがしら》が熱くなり、心弱くも涙が流れた。
「これをどこか出してくれる処《ところ》がないものかと思いますけれど……。」
「そうね、ちょっと僕ではどうかな。」
「ほん
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