人もあるわね。少し親切にすると、すぐ上《かみ》さんにならないかなんて言ふ人があるわ。だけれど其もこゝにゐるからこそ然うなんだよ。出てしまつちや、やつぱり駄目さ。」彼女は慵《ものう》げな声で言つて、空で指環を抜差《ぬきさし》してゐた。
「それはかうした背景に情趣を感ずるとでも言ふんだらうけれど、そんなのは駄目さ。ほんとうにその人を愛してゐるんでなくちや。」
 女はまた「ふゝ」と笑つた。
「瞞《だま》すつて一体どんな事なんだい。」
「まあ惚《ほ》れさうに見せかけるのさ。」女は吭《のど》で笑ひながら、「だけれど私には何うしてもそれが出来ないの。たゞお客を大事にするだけなの。それに私なんか恁《か》う見えても温順《おとな》しいんだから、鉄火《てつか》な真似なんか迚《とて》も柄にないの。ほんとうに温順しい花魁《おいらん》だつて、みんなが然《さ》う言ふわよ。」
「あゝ」と、男は悩ましげに溜息をついたが、暫くすると、「僕は君のやうな人は、一日も早くこゝを出してあげたいと思ふね。」
「ふゝ」と、女は又持前の笑顔を洩《もら》した。「そして、何うするの。お上さんにしてくれて?」
「いや、そんなことは何うでも可いんだ。たゞ金のためにこんな処に縛られてゐて、貴重な青春をむざ/\色慾の餓鬼《がき》のために浪費されてしまふのが堪らないんだよ。恋もなしにそんな老人と一生|寂《さび》しく暮すことにでもなれば、尚更《なほさ》ら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。」男は熱情的に言つた。
「まつたくだわ。」女も感激したといふよりも、寧《むし》ろ驚いた風で、「さう言つてくれるのは貴方ばかりよ。」
 そして彼女はまた腹這《はらば》ひになつて、莨《たばこ》を吸ひつけて彼の口へ運んで行つた。
「わたし幾許《いくら》も借金がないのよ。」
「幾許あるの。」
「さうね、御内所《ごないしよ》の方は勘定したら何《ど》のくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。」
 そして彼女は胸算で、五百円ばかりを計上した。勿論彼女としては、素人《しろうと》になれば買ひたいものも少くはなかつたが、単に足を洗ふにはそれだけの額は余りに多過ぎた。
「僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」
「それでも女郎と一緒になるといへば、きつと吃驚《びつくり》するわ。」
 新造が入つて来た。

 一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をして幾《ほと》んど全部を返した。

 夏になつてから、その学生は田舎《ゐなか》へ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ/″\になつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身に染《し》みてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひの劇《はげ》しい大阪の方で、※[#「兀にょう+王」、第3水準1−47−62]弱《よわ》い体で自転車などに乗つて苦使《こきつか》はれてゐた。彼女は時々彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ報知《しらせ》の来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客として上《あが》つてくる若いお店者《たなもの》などを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯《きやうがい》を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢《じゆばん》や何かを縫つたり又は引釈《ひきと》きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな檻《をり》のなかにゐる遣瀬《やるせ》なさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤《たちばん》に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい懐《なつ》かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心が燥《はしや》いで、萎《な》えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うか/\過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、反《かへ》つて不安でならなかつた。どこを見ても、耀《かゞや》かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。
 大学生と別れ
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