てから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧《むし》ろ相手になるのが大人気《おとなげ》ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角《せつかく》嚮《む》いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草《いひぐさ》が何だかふは/\してゐて、手頼《たより》ないやうにも思はれたが、真実《ほんとう》に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退《しりぞ》けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳《あたま》に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明《はつきり》見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
 或日の午後、彼女は私《そつ》と新造《しんぞ》に其事を話して、廓《くるわ》を脱け出ると土産物を少し調《とゝの》へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に――時としては一人で、時々|外出《そとで》してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か悦《よろこ》びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふら/\と遽《には》かに思ひついたことなので、考へてゐる隙《ひま》もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗《ひきだし》の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿《はんえり》だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒《きりざんせう》などがあつた。
 避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也《かなり》雑沓《ざつたふ》してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間《ちゆうかん》の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に浸《ひた》つて、何か特殊な忌《いま》はしい痕迹《こんせき》が顔や挙動に染込《しみこ》んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもゐた。
 海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐《しお》つぽい海風がそよ/\と吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿《ゆかたすがた》が涼しげに見えた。
 男の家《うち》は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪《たづ》ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方《しかた》なしいきなり訪ねることにした。
 俥《くるま》はやがて町端《まちはづれ》を離れて、暗い田舎道へ差懸《さしかゝ》つた。黝《くろ》い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼《な》きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅《おびや》かした。高い垣根を結《ゆは》へた農家がしばらく続いた。行水《ぎようずゐ》や蚊遣《かやり》の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声《なきごゑ》が不意に垣根のなかに起つたりした。
 道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺《あたり》が一層|闃寂《ひつそり》して来て、石高《いしだか》な道を挽《ひ》き悩んでゐる人間さへが何《ど》んな心をもつてゐるか判らないやうに怕《おそ》れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際《がけぎは》の白百合《しらゆり》の花などが、殊《こと》にも彼女の心を悸《おび》えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
 彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀《へい》やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖《とざ》されて、内は人気《ひとけ》もないやうに闃寂《ひつそり》してゐた。それに石段の上にある門と住居《すまひ》との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒《ざわ》めいてゐた。しかし生活《くらし》の豊かな此辺は人気《にんき》が好いとみえて、耳門《くゞり》を推《お》すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆《おく》せて、其のまゝ其|俥《くるま》で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の
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