土間へ立つて、思ひ切つて案内を乞《こ》うてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方から明《あかり》がさして人声が微《かす》かにしてゐるやうであつた。古びた広い家《うち》ががらんとしてゐた。何処《どこ》からか胸のわるい牛部屋の臭気が通《かよ》つて来た。
 彼女は失望と不安とを強《し》ひて圧《おさ》へるやうにして、門の内を仕切つてある塀《へい》についてゐる小い門の開《あ》いてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで微暗《ほのぐら》く、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。開放《あけはな》した座敷は暗かつたが、籐椅子《とういす》が取出されてあつたり、火の消えた盆燈籠《ぼんどうろう》が軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に淡赤《うすあか》い電燈の影が、月暈《つきのかさ》のやうな円を描いて、庭木や草の上に蒼白《あをじろ》く反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一|棟《むね》の離房《はなれ》で、瓦葺《かはらぶき》の高い二階建であつた。そして其処に若い男が浴衣《ゆかた》がけで、机に坐つて読書に耽《ふけ》つてゐた。顔は焦《や》けてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。
 ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。
「私よ。私来たのよ。」彼女は嫣然《につこり》して見せた。
「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうに脅《おど》かされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応|凝視《みつ》めた。
「わたし何だか急に来て見たくなつて、私《そつ》と脱出《ぬけだ》して来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」
「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔を紅《あか》くして、急いで彼女を内へ入れた。
「上つても可いんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で躊躇《ちうちよ》してゐた。
 家は上り口と、奥の八畳との二室《ふたま》であつたが、八畳から二階へ梯子《はしご》が懸《かけ》わたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などを侑《すゝ》められると、彼女は里離れのした態度で、更《あらた》めて両手をついて叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。彼は面喰《めんくら》つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい紅色《べにいろ》した新鮮な水蜜桃《すゐみつたう》が、盆の上に転つてゐた。
「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻《まぼろし》が映つたのかと思つて、慄然《ぞつ》としたよ。」
「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方《あなた》に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」
「夜だから然《そ》う云ふ気がしたのだよ。」
「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下《あたり》を見まはした。
「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおど/\した調子で、時々|母屋《おもや》の方へ目をやつた。
「私こゝにゐても可いのでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。
「いや、いづれ明朝《あした》僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」
「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意《かま》やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」
「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと惑《まど》つてゐる風であつた。
 話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。
 彼はたゞ大様《おほやう》に頷《うなづ》いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋《おもや》の方へ行つた。
 彼の家《うち》は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよい/\色々《いろん》なことに手を出してゐた。東京へも用達《ようた》しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。
 大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方《こつち》へやつて来た。
「母に話したら、是非
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