するやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の子息《むすこ》に心を惹着《ひきつ》けられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔が紅《あか》くなつたり心臓が波うつたりして、夜《よる》枕に就《つ》いてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、微《かす》かなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れ凋《しぼ》んでしまつた。彼女の生家は、町でもちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃から遽《には》かに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれから夫《それ》へと心に映じて来たが、だらしのない父の放蕩《はうたう》の報《むく》いで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな境涯《きやうがい》に陥《お》ちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが彼《か》の大学生によつて、ぼんやり喚覚《よびさ》まされるやうな果敢《はか》ない懐かしさを唆《そゝ》られた。
彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女に臆《おく》するやうな様子で、町に明りのつく時分|独《ひと》りで上つて来たが、忙《せは》しいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、独活《うど》と半ぺんの甘煮《うまに》なども、新造《しんぞ》は二人のために見つくろつて、酒を白銚《はくてう》から少しばかり銚子に移して、銅壺《どうこ》でお燗《かん》をしたりした。水桶《みづをけ》だのお鉢だの、こま/\した世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、海苔《のり》をやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして縮緬《ちりめん》の夜具のなかへ入つて行つた。
「一体君たちは、こんなことをしてゐて、終《しま》ひに何うなるんだね。」彼は腹這《はらば》ひになつて、莨《たばこ》をふかしながら、そんな事を訊《たづ》ねた。
「ふゝ」と、女は嗤《わら》つてゐたが、「まあ余り好いことはありませんね。親元へ帰つて行く人もあるし、東京でお客と一緒になる人もあるしさ。」
「君なんか何うするんだね。」
「何うしようと思つて、今思案中なのよ。」女も起きあがつて莨をふかしながら、「今のところ二人ばかり当があるんだけれど……。」
「商人かね。」
「さうね。一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時々東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代り上さんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のお守なんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて為方《しかた》がないでせう。だから孰《どつち》も駄目さ。」
「君のところへは、何うしてさう年寄ばかり来るんだ。」彼は痛ましいやうな表情をして訊《き》いた。「君はまだ若くて美しいぢやないか。」
「ふゝ」と、女は袖口のまくれた白い肱《ひぢ》をあげて、島田の髷《ま》をなでながら、うつとりした目をして天井を眺《なが》めてゐた。
「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」
「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」
「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」
「それあ、そんな人は家《うち》にも偶《たま》にはあるのさ。それあ可笑《をか》しいのよ。七《しち》おき八おきして、終《しま》ひにその男のために年期を増すなんて逆上《のぼ》せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者《たなもの》か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方《あなた》のやうなお母さんの秘蔵息子を瞞《だま》せば尚《なほ》罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」
「だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方《しかた》がないぢやないか。」
「熱情ですつて。それあ然《さ》ういふ
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