するやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の子息《むすこ》に心を惹着《ひきつ》けられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔が紅《あか》くなつたり心臓が波うつたりして、夜《よる》枕に就《つ》いてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、微《かす》かなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れ凋《しぼ》んでしまつた。彼女の生家は、町でもちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃から遽《には》かに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれから夫《それ》へと心に映じて来たが、だらしのない父の放蕩《はうたう》の報《むく》いで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな境涯《きやうがい》に陥《お》ちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが彼《か》の大学生によつて、ぼんやり喚覚《よびさ》まされるやうな果敢《はか》ない懐かしさを唆《そゝ》られた。
彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女に臆《おく》するやうな様子で、町に明りのつく時分|独《ひと》りで上つて来たが、忙《せは》しいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、独活《うど》と半ぺんの甘煮《うまに》なども、新造《しんぞ》は二人のために見つくろつて、酒を白銚《はくてう》から少しばかり銚子に移して、銅壺《どうこ》でお燗《かん》をしたりした。水桶《みづをけ》だのお鉢だの、こま/\した世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、海苔《のり》をやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして縮緬《ちりめん》の夜具のなかへ入つて行つた。
「一体君たちは、こんなことをしてゐて、終《しま》ひに何うなるんだね
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