がけてもゐた。
海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐《しお》つぽい海風がそよ/\と吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿《ゆかたすがた》が涼しげに見えた。
男の家《うち》は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪《たづ》ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方《しかた》なしいきなり訪ねることにした。
俥《くるま》はやがて町端《まちはづれ》を離れて、暗い田舎道へ差懸《さしかゝ》つた。黝《くろ》い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼《な》きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅《おびや》かした。高い垣根を結《ゆは》へた農家がしばらく続いた。行水《ぎようずゐ》や蚊遣《かやり》の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声《なきごゑ》が不意に垣根のなかに起つたりした。
道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺《あたり》が一層|闃寂《ひつそり》して来て、石高《いしだか》な道を挽《ひ》き悩んでゐる人間さへが何《ど》んな心をもつてゐるか判らないやうに怕《おそ》れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際《がけぎは》の白百合《しらゆり》の花などが、殊《こと》にも彼女の心を悸《おび》えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀《へい》やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖《とざ》されて、内は人気《ひとけ》もないやうに闃寂《ひつそり》してゐた。それに石段の上にある門と住居《すまひ》との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒《ざわ》めいてゐた。しかし生活《くらし》の豊かな此辺は人気《にんき》が好いとみえて、耳門《くゞり》を推《お》すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆《おく》せて、其のまゝ其|俥《くるま》で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の
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