てから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧《むし》ろ相手になるのが大人気《おとなげ》ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角《せつかく》嚮《む》いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草《いひぐさ》が何だかふは/\してゐて、手頼《たより》ないやうにも思はれたが、真実《ほんとう》に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退《しりぞ》けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳《あたま》に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明《はつきり》見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
或日の午後、彼女は私《そつ》と新造《しんぞ》に其事を話して、廓《くるわ》を脱け出ると土産物を少し調《とゝの》へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に――時としては一人で、時々|外出《そとで》してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か悦《よろこ》びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふら/\と遽《には》かに思ひついたことなので、考へてゐる隙《ひま》もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗《ひきだし》の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿《はんえり》だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒《きりざんせう》などがあつた。
避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也《かなり》雑沓《ざつたふ》してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間《ちゆうかん》の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に浸《ひた》つて、何か特殊な忌《いま》はしい痕迹《こんせき》が顔や挙動に染込《しみこ》んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心
前へ
次へ
全13ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング