よ。」
 雛子は言つてゐたが、蓮見も圭子も気になつた。
「大分前?」
「え、ちよつと……一時問くらゐ。」
 不良少年のゐる、仲通りの家具屋へ入り込んで、何か悪い智慧《ちゑ》をつけられたことがあつたので、そこへ雛子を見にやつたが、ゐなかつた。其処らを探してみたが、チビの姿は見えなかつた。
 それから兎に角交番へちよつと知らせておいたので、十二時近くになつてから、署から電話がかゝつて、父親が今咲子の来たことを告げに来たからといふ、下谷の其の署から此方の署への電話を伝へたといふのだつた。
 圭子と蓮見は、更けた街を自動車を飛ばした。
 咲子はブリキ屋の二階の、薄汚い部屋で、少し酔つてゐるらしい、しかし人の好ささうな父親に抱かれて寝てゐた。七輪や、鍋《なべ》や土瓶《どびん》のやうなものが、薄暗い部屋の一方にごちやごちや置いてあり、何か為体《えたい》の知れない悪臭で、鼻持ちがならなかつた。
「姉は至つておとなしい質《たち》ですが、こいつと来たら親の手ごちにも行かない奴でして……。」
 彼はそんなに貧乏や病気に苦しんでゐるらしくもなく、恵比寿《ゑびす》のやうににこ/\した顔で恐縮してゐた、酒気をさへ帯びてゐるのだつた。

 次ぎの月になつて、蓮見は試しに咲子を暫く娘に預けることにした。
 蓮見の家は、歩いても二十分くらゐで行けるやうな高台にあつたが、何か急に取寄せたり、持たしてやるもののある場合に、家を教へて咲子を使ひにやることにしてゐたので、咲子はいつか蓮見の家族にもお馴染《なじみ》になつてゐたが、兎角玄関から上りたがる彼女を、裏口から入らせることにするには、相当手間がかゝつたが、その度に圭子は使ひ賃をやることにしてゐたし、近頃圭子の家から五六町離れたところに、愛人と一緒に下宿してゐる蓮見の長男の雅夫《まさを》へ、家からの電話の伝達などさせる場合にも、三銭とか五銭とかの使ひ賃を雅夫から遣ることにしてゐたが、何うかしてそれを忘れてゐると、まるで世間摺《せけんず》れのした裏店《うらだな》のお神のやうな調子で、それを請求したり、蜜豆を催促したりするのだつたが、圭子が厳しく言つて聞かすと、本来卑しいところのない子供なので、今度は何んなにくれると言つても、意地にも手を出さないのであつた。しかしこの子の声の高いのは、耳が少し悪いのだといふことも解つたし、時々無気味な白い眼で斜に睨《にら》むやうな癖のあるのも、トラホームや近眼のせゐではないらしかつた。頭脳《あたま》はひねてゐたし、子供にしては利害の打算も割方はつきりしてゐたが、大きくなるにつれて、何か生理的な欠陥が現はれて来さうな気がしてならなかつた。
 蓮見の家庭でも咲子のことが噂されてゐた矢先きで、頭脳が異常に発達してゐるのは、反つて頭脳の悪い証拠ぢやないかとさへ言はれてゐた。
「どうだ少しお前にあづけて見ようか。」
 蓮見が長女の藤子に言ふと、
「さうね、『一つ母の手で』やつて見ませうか。」
 と笑談《ぜうだん》を言つて笑つた。
 咲子の能弁と剛情は、一週間もたたないうちに、皆んなを呆《あき》れさせてしまつた。蓮見が行つてみると、いつも彼女は茶の間の集まりのなかにゐて、時には藤子の脇にちやんと坐りこんで、餉台《ちやぶだい》のうへに煮立つてゐる牛肉で御飯を食べてゐることもあつたし、子供部屋で妹の鞠子《まりこ》の着物に縫ひあげをしてもらつて、着せられてゐるのを見たこともあつた。タプリンも圭子が買つたものより好いものを着せられてゐた。眼科へは家政をやつてゐるをばさんが、連れて通《かよ》つた。
 圭子は留守の間に電話をいぢつて、用もないのに抱へ達の出先きへかけたりするので、弱つてゐたが、自分が側にゐる時には、わざと受話器を持たせるやうにしてゐた。蓮見の家の裏には小さいアパートが一つあつて、咲子は蓮見を医者だと思ひこんでゐたところから、それを病室だと信じてゐて、隙《ひま》があると廊下をぶら/\して、部屋のなかを覗きたがつた。
「どうだい、少しおとなしくなつたかい。」
 或日蓮見が藤子に訊くと、彼女は擽《くすぐ》つたい表情をして、
「え、気永にやれば少しづゝ矯正《けうせい》できるかも知れませんけれど、何しろ始末にいけないチビさんですよ。私のいふことだけは、幾許《いくら》かきくんだけれど、松子なんか頭から馬鹿にして、昨日も奥のお火鉢を綺麗に掃除したあとへ行つて、わざと灰を引掻き廻して、其処らぢう灰だらけにしたんですよ。松子がちよつとした用事を吩咐《いひつ》けても、いつだつて外方《そつぽ》むいて返事もしないつて風なんです。松子は泣いてしまつたんです。」
「成程ね。」
「だけれど面白い子ですわ。今日私が机に頬杖《ほゝづゑ》ついてぢつとしてゐると、あの子が傍へ来て、私の顔を覗きこんで、姉さんでも何か心配があるかと訊くのよ。それあ私だつて心配があるわよ。大人には小さい人にわからない心配があるのよと言ふとね、姉さんなんか些《ちつ》とも心配することなんかないぢやないか。をぢさんが死んでも、この家もアパートもあるんだから、ちつとも困りやしないつて言ふのよ。その癖自分のことは何も言はないの。敵《かな》はないわ。」
 蓮見は笑へもしなかつた。
「へえ、チビの主観だ。」
「勝手で横着なだけに、可哀さうなところもあるの。だけど何だか少し厭な子ね。松やと一緒に寝かさうと思つても、何うしても厭だと言つて頑張《ぐわんば》るし、煙草でも買はせにやれば、入りこんで油を売つてゐるし、長くゐるうちには近所隣り何処へでも入りこんで、困ると思ふわ。」
「何しろ時々凄いこと言ふよ。」
 傍にゐた三男も、林檎《りんご》を食べながら笑つてゐた。
 九時頃だつたけれど、咲子はもう納戸《なんど》で寝てゐた。
 藤子の話によると、ちよつとした言葉の行掛りから、或時咲子は意地づくで水風呂のなかへ飛びこんでしまつた。風呂好きな彼女は風呂の催促でもしたものらしかつたが、いつも藤子達が入つてから入れられ、時間の都合では、をばさんが洗つてやるので、咲子の番は遅かつた。しかしいくら勝手な彼女でも、そこまで考へる筈はなかつた。たゞちよつと奇抜な芸当をやつて見せたに過ぎないのであつたが、可なりの時間を水風呂のなかに立つて、えへゝ笑つてゐるのであつた。
「何しろ少し変だわよ。」
 蓮見はこの子供の一番上の兄が、気が狂つて松沢にゐることを思ひ出した。二番の兄は運転手だつた。この二人の兄は、咲子と、今一人の仕込みに行つてゐる彼女の姉と、父を異にしてゐた。彼等の母は、咲子の三つの年死んだ。

 再び圭子のところへ帰つて来た。
 咲子は蓮見の家へやられた時、広いので悦《よろこ》んでゐた。
「うむ、これならをぢさんのとこ好い家だ。」
 彼女は幸福さうだつたが、違つた環境の寂《さび》しさが段々しみて来た。悪戯《いたづら》は出来ないし、柄《がら》にあふ女達も近所にはなかつた。行儀や言葉づかひを直されるのも、気窮《きづま》りで仕方がなかつた。圭子のところで、いつも謳《うた》つてゐた「奴《やつこ》さん」だとか、「おけさ踊るなら」も、人々の笑ひの種子《たね》だつた。口にしつけた焼鳥や蜜豆も喰べられないし、毎日の楽しみだつた八飴を嘗《な》めに行くなどは思ひも寄らないことだつた。次第に彼女は寂しくなつた。苛《いぢ》められたり揶揄《からか》はれたりしても、まだしも雛子や蝶子が懐かしかつた。お出先きへ貰ひに行くとか、着替へを運んで行つたり、あの商売の手伝ひでもして、わあ/\言つてゐる方が、何んなに面白いか知れなかつた。何《ど》うかすると出先きで、酔つぱらひのお客に揶揄《からか》はれたり、銀貨をもらつたりするのも、忘られない楽しみであつた。
「うむ、お前好い児だ。今に芸者に出たら買つてやるぞつて……帽子横つちように冠つて、へべれけに酔つてんのさ。」
 咲子はさう言つて、はゝ笑つてゐるのだが、習慣的にさういふ気分が好きだつた。いや、習慣的といふよりか、子供によつては先天的に、さういふ血を亨《う》けてゐるのであつた。売淫が直《ぴつた》りはまるやうな女も、世間にはないことでもないのだし、水商売にのみ適した女もない訳ではなかつた。さういつた傾向の女を、厳格な堅気風に仕立てることは、寧《むし》ろ徒労だと言つても可かつた。
「何うだつたい、をぢさんの家は?」
 蓮見がきくと、持前の愛嬌笑《あいけうわら》ひをして、
「広い家は夜になると寂《さび》しいんですよ。」
 咲子は言つたが、をばさんの良人のアパートの番人のをぢさんに蹴《け》られたことを、今も不平さうに訴へるのであつた。
「蹴つたんぢやない。お前が長火鉢の前に頑張つてゐたから、退《ど》けと言つて膝で押しただけだといふぢやないか。」
 蓮見は弁解した。
 しかし咲子は、蓮見の家で暮らしたことによつて、何かまた少し考へるやうになつてゐた。いくらか温順《おとな》しくなつたやうに見えたが、それも日がたつに従つて、前よりも一層附けあがつて来た。何よりも圭子を失望させたのは、父親に言はれて来たらしい、虐《いぢ》められたら警察へ飛込むのだといふことだつた。それに彼女は、何もかも知つてゐた。父が受取つた金の高、仲人がそのうち幾許《いくら》はねたかといふやうな事まで。それに、父は積つてゐた部屋代も払はずに、ブリキ屋や、同宿の人の隙を覘《ねら》つて夜逃をした事――それはブリキ屋が彼の田舎《ゐなか》の落着先を圭子のところに聞きに来た時の話で解つたことだが、それを知つた咲子は怒つてゐた。
「私のお父ちやん矢張り悪い人だつたんだ。」
 彼女は子心に父を色々に考へてゐるものらしかつた。兄と往来《ゆきき》をしないところを見ると、悪人のやうにも思へたが、兄の方が悪いやうにも思へた。しかし何処へ行つて見ても、結局父が懐かしく思ひ出せるだけだつた。何うしてこんなに、彼方行つたり此方へ遣られたりするのか、その理由も解らなかつたし、考へて見るだけの智慧もなかつた。それが度重なつたところで、そんな神経が若《も》しあつたとしても、いつか萎《な》えてしまつて、常習的に感じがなくなつてしまつたものだつた。白い眼を剥《む》き出す癖が、この頃特に目立つて来て、系統だから、折角一人前の女に仕揚げたところで、何んなことで頭脳が狂はないものでもなかつた。光沢に乏しい皮膚の色や、細つこい首筋を見ても、何か遺伝の毒がありさうに思へたり、突拍子《とつぴやうし》もなく笑ひ出す調子も怪しかつた。――圭子はさう思ふと、一時に厭気が差して来た。
 或日厄介ものを棄てに行くやうに、圭子は咲子をつれて、渡辺の家へおいて来た。渡辺は咲子の父のゐた、ブリキ屋のつい近くの路次に往んでゐた。
「私には迚《とて》もこの子は面倒見切れませんよ。」
 渡辺は薄暗い部屋の炬燵《こたつ》の側で、狸《たぬき》のやうに坐つてゐた。
「さうですか。いや、それでしたら又|何《な》んとか考へませうが……。」咲子をぢつと見て、
「お前は馬鹿だね。この姐《ねえ》さんとこにゐられないやうなら、何処《どこ》へ行つたつて駄目だぞ。――お父ちやんが好い家へ行つたと言つて、安心して田舎へ帰つたのにさ。」
「親父さんも手甲摺《てこず》つたものらしいのですね。」
「いや、私も余り深いことは知らないので、講中の附合で知つてゐるところから、是非心配してくれといはれましてね。」
 圭子の傍に坐つてゐた咲子は、遽《にはか》にえへゝと笑ひ出した。ちよつと見ると、それは大人を小馬鹿にしてゐるのだとしか思へないので――今までもそれを悪摺《わるず》れのせゐにしてゐたものだが、それの間違ひであつたことが、較々《ほゞ》感づけて来た訳《わけ》だつた。藤子の鑑定したやうに、早晩痴呆症の発作が咲子に起らないとも限らないのであつた。
 兎に角置いて来たのだつたが、三日ばかり経つと、渡辺が再びチビを連れてやつて来た。そして、何といつても此処が籍元だからといふ理由で、否応《いやおう》なしになすりつけて行つてしまつた。無論三軒ばかり見せて歩いた結果であつた。
 圭子は押返す勇気もなかつた。当分のつも
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