ふと、
「だつて此方がお母ちやんでせう。」
「でも、をぢさんといへば可いの。をぢさんには沢山子供さんがあるのよ。」
「あゝ、さうか。ぢやをぢさんとお母ちやん結婚してないの。解つた。ぢやをぢさんに奥さんがあるんだ。」
「ないんだ。」
「ないの! 死んぢやつたんですか。」
「さうよ。」
「あゝ解つた。ぢやあお母ちやんは……。」咲子は独りで呑み込んで、
「ぢやをぢさん先刻《さつき》家《うち》から来たの。こゝにゐるんぢやないの。」
「ゐることもあるし……。」
咲子は圭子を指して、
「お母ちやん今に棄てられる。」
「馬鹿!」
「さお早くお寝なさい。蒲団出してあるから、自分で敷いて……。」
「むうん、眠くないんです。」
蓮見は何か気味悪さうに、しみ/″\子供の顔を見てゐたが、むづと頭を掴《つか》んだ。
「抽斗頭《ひきだしあたま》だね。おれもさうだが……。鼻も変だね、こゝんとこが削《そ》いだみたいで。」
「をぢさんの鼻だつてさうですよ。」
咲子は負けない気で主張した。
日がたつに従つて、この子供の特異性が次第にはつきりして来た。貧乏でも、別にさう悪くは育つてゐないどころか、事によると乱次《だらし》のない父親の愛情がさうさせたものらしい、子供にしては可愛気のない矜《ほこ》りのやうなものが、産れつきの剛情と一つになつて、それをどこまでも枉《ま》げまいための横着さといふものがあつて、何うかすると、現実的な利益の外には、どこまで掘つて行つても、他人の愛情の手に縋《すが》るとか、飛びつくといつたやうな可憐《いぢら》しさは微塵《みぢん》もなかつたが、決して卑屈ではなかつたし、柔順では尚更なかつた。後で段々わかつたことだが、圭子と同じやうな商売屋を既に三十軒も引き廻はされて来たくらゐだから、彼女はどこに落ちついて眠り、誰の手に縋つていゝか解らなくなつてゐるのに無理はなかつたが、それは環境が段々さうさせた事には違ひないとは言へ、そんなに多勢の人に見切りをつけられるのには、理由がなくてはならなかつた。
圭子もこの子の行先を考へると、ちよつと恐しいやうな気がした。わづか十年しか此世の風に曝《さら》されてゐない咲子は、或る意味で既に一つの完成品に凝《かた》まりかけてゐるやうに思へたが、年と共に其のなかにあるものが成長して行くことを考へると、何をされるか解らないやうな不安を感じて、半分厭気が差して来た。蓮見はその反対に寧《むし》ろ興味を感じはじめてゐたが、興味と実際問題とは別であつた。何《ど》うせ堅気の生活は出来ないやうに出来てゐるとすれば、この子の棲《す》む世界は矢張りかう言つた特殊の環境だらうが、巧《うま》く行けば何処か水商売の女将くらゐにはなれさうに思へたが、そのルムぺン性は海外へでも出て働くのに悪くはないだらうとも思へた。
「あたいが芸言になれば、うんと働いてお父ちやんにお金やる。」
咲子はさう言つて、高慢な身振をするのだつたが、顔にも自信をもつてゐて、さういふ家ばかり歩いて来たからには違ひないが、毎日風呂へ行くことと、黙つて見てゐれば、蝶子や雛子たちの鏡台の前にちよこなんと坐りこんで、白粉やクレイムを塗るのも好きであつた。
しかし咲子は時々父親のことだけは思ひ出すものと見えて、「お父ちやんまだ下谷にゐるんですか」と圭子に聞き聞きした。
「もう田舎へ帰つたでせう。」
「でも、帰る前に屹度《きつと》一度は私に逢ひに来ると言つてゐたんです。」
「でも、あの時直ぐにも立つやうに言つてゐたでせう。渡辺のをぢさんが……。」
「ぢや私《あたい》のお父ちやん嘘吐《うそつ》きだ。私を瞞《だま》したんだ。」
咲子は真剣な目をした。
「お父ちやん私を売つたんでせう。」
「別に売つた訳ぢやないわよ。お金がなくちや田舎へ帰れないといふから上げたのよ。」
彼女は父親がまだ下谷のブリキ屋の二階にゐるやうな気がしてならなかつた。そして来た当座、毎日こゝに逢ひに来る彼を待つてゐるものらしかつたが、圭子の処へ子供を寄越して、父親が悉皆《すつかり》安堵《あんど》してゐることは渡辺の話で圭子には解つてゐた。
子供が来た翌日、圭子の母親は、末つ子の着古した洋服や、メリンスの綿入れや、途中で買つたメリヤスのズボンにシャツ、下駄などを一トそろひ持ちこんで来て、どくどくに汚れてゐる着物を脱がし、大人の着るやうな胴着や、ばかに厚ぼつたくて大きい腰巻を取つて、着替へをさせたものだが、田舎風のぬけない圭子の母親を少し馬鹿にしたやうな調子で、なか/\手がかゝつたし、着せるものにも余り満足しないやうな風なので、母親は一度で懲《こ》りてしまつた。圭子の妹達は、皆な親が感謝してもいゝやうな子供であつた。
それゆゑ咲子は人には懐《なつ》きにくい質《たち》の女で、それだけ自分の父親は愛してゐた。何か父親に裏切られたやうな気がしながら、理解はもつてゐるものらしく、
「あたい一度お父ちやん助けてやつたんだから、これで可いや。」
と其時はさう言つて呟いてゐたが、花柳界の習はしは、大体頭へ入つてゐるので、今五六年もたてば、芸者として一ぱし働く積りだつた。蓮見はそれが小憎《こにく》らしいやうな気もした。
「お前、芸者には駄目だよ。」
「何故ですか」
と言ひさうに咲子は彼を見たが、さういふ時の目は余り感じがよくなかつた。
咲子は蓮見の注意したとほり、ひどいトラホームで、その上近眼なことが、近所の眼科でわかつたので、二回ばかり焼いてもらつて、毎日家で薬を注《さ》すことになつてゐたが、思ひのほか費用がかゝるので、少し遠かつたけれど、圭子は最初蓮見一家のかゝりつけへ行つたが、更に神田の方の病院へつれて行つた。そこでは焼いたり切つたりするのは、徒《いたづ》らに目蓋《まぶた》を傷つけるばかり、反《かへ》つて目容《めつき》を醜くするし、気永に療治した方がいゝといふので、其の通りにしてゐるのであつた。それに圭子は半ばこの子に絶望もしてゐたので、さう手をかけても詰らないと思ふやうになつてゐた。彼女は近所の子供の、洋服にランドセイルを背負つた学校通ひの姿を、いつも羨《うらや》ましいものに思つてゐたので、咲子が来るとすぐ学校のことを人に聴き合せたのであつたが、大抵この界隈《かいわい》では夜学へやるのが多かつた。好い学校は少し遠くもあるし、夜の商売なので、朝早く出してやるには女中もおかなければならなかつた。誰か子供好きの女中が見つかるまで当分夜学へやらうかと考へてゐたが、その夜学も、思つたより風紀がわるくて、反つて子供の純白さが汚され、飛んだ不良になりがちだことを、経験者から教へられたので、それも考へものだと思つてゐた。何よりもトラホームが問題であつた。医者は雑誌など読ませないやうに、風呂へも長くいれては悪いし、御飯も咲子の不断の習慣の、三度々々の大盛の三杯を、二杯に減らした方がいゝといふので、出来るだけさうさせるやうにしてゐたが、何うかすると病院へ行くのを厭がつたり、自分で出来る洗滌《せんでう》も、成るべくずるけてゐたい方であつた。圭子はよく彼女を捉《つかま》へて、注《さ》し薬《ぐすり》をたらして滲《し》みこませるために、目蓋《まぶた》を剥《む》きかへして、何分かのあひだ抑へてゐるのであつたが、片目の目脂《めやに》が少し減つたと思ふと、今度は他の片方が悪くなつたりして、いつ快《よ》くなるか解らなかつた。トラホームは絶対に癒《なほ》らないと言ふものもあつた。
雛子が時々読本や算術をさらつてやつてゐた。咲子は何か美しいものには魅力を感ずるらしく、何うかすると大口を開いて、雛子の顔に見惚れてゐることもあつたが、お子姓《こしやう》のやうな顔をして、乱暴な口を利きながら、教鞭《けうべん》の代りに二尺|差《ざ》しを手にしてゐる雛子の前で、小型の餉台《ちやぶだい》に向つて、チビはしや嗄《が》れたやうな太い声をはりあげて、面白い節をつけて、柄にない読本を読むのであつた。浪花節《なにはぶし》でもやりさうな咽喉《のど》であつた。
「こら胡麻化《ごまか》しちやいけない。」
雛子は男のやうに口をきいて、咲子を笑はせた。
「雛子|姐《ねえ》さん学校何年やつた?」
「そんなこと聞かなくとも宜《よろ》しい。芸者はラブ・レタさへ書ければいゝんだ。」
「あゝ、ラブ・レタ、雛子姐さんも彼氏のところへラブ・レタやる?」
皆んなが呆れてどつと笑つた。
「ラブ・レタつて何だか知つとるか。」
咲子はへ、へと笑つた。
「君のやうなおませは、学校の先生も嘸《さぞ》手甲摺《てこず》つたことだらう。」
「え、さうです。それに誰も私と遊んでくれないんです。」
それよりも、咲子は大人のやうな抑揚《めりはり》のある調子で、講談本を読むのが巧かつたし、侠客や盗賊の名前も能《よ》く知つてゐた。片目を瞑《つぶ》つて丹下左膳の真似もしたし、右太衛門とか好太郎とか、千恵蔵とか、飯塚とし子、田中絹代などの名前も口にした。誰れが好きなのかはわからないにしても、圭子と雛子に長唄をさらひに来る若い師匠には、何か憧《あこが》れのやうな気持をもつてゐて、自身で口から顎《あご》のあたりを撫ぜながら、
「お師匠さんのこゝんとこ、私大好きさ。」
言ふくらゐだから、ませてはゐるのであつた。
講談本を好かない圭子は、そこらにある雑誌をみんな隠してしまつたが、馬鹿々々しい少女物をわざ/\買つて当がふ気にもなれなかつた。総ては目が癒つてからのことだし、育てるか何うかも決定した上のことだと思つてゐた。
それに何よりも厭なことは、この子の見え坊なことであつた。抱への座敷着を見る目にも、さう言つた慾望が十分現はれてゐたし、まだ道具などの不揃ひがちな、圭子の部屋にも、或る飽足りなさを感じてゐて、今まで見て来た家で、裕福さうな綺麗な家のことを思ひ出してゐるらしかつた。
不断口数の少ない圭子は、咲子が来てから、朝から夜まで何か小言を言つてゐなければならなかつた。近所の男の子に追つかけられて、入口の硝子戸《ガラスど》に石を投げられたり、圭子が警告されたほど、居周《ゐまは》りの家へ入りこんでお饒舌《しやべり》をしたり、又は遠走りをしたり、八飴屋《はちあめや》の定連であつたりするのは可いとして、圭子の娘として、抱への人達を、奉公人のやうに見下す気持から圭子の留守の時は、何一つ彼女達の言ふことを素直に聞いたことはなかつた。
或る晩圭子は蓮見と一緒に、時節の半衿《はんえり》や伊達巻《だてまき》のやうな子供たちの小物を買ひに、浅草時代の馴染《なじみ》の家へ行つて、序でに咲子の兵児帯《へこおび》や下駄なども買つた。
「ここにセイラ服があるけれど、あの子の貯金がいくらか溜つたら買つてあげるつて言つてゐるの。其は其として、安いものだから一つ買つてもいゝんだけれど、あの子も余り可愛気がなさすぎるから……。」
圭子は店頭に立つて、暫く洋服やスエタアの飾窓を眺めてゐた。蓮見も思はないことはなかつたが、長年デパアトで子供洋服の見立をやつて来てゐたので、何か億劫《おくくふ》であつた。甘やかせば甘やかすほど附けあがる咲子の性質も気に入らなかつた。此頃彼女は圭子をも舐《な》めてかゝつてゐた。何《ど》んなに眠いときでも、蓮見がおこすと、渋くりながらも便所へも立つのであつたが、圭子では世話を焼かすばかりであつた。
圭子と蓮見は、買ひものがてら、見たい映画を見たのであつたが、今日のやうに二人そろつて外出する場合、咲子は箪笥《たんす》から着物を出してゐる圭子の後ろへまはつて、
「お母ちやんいゝね。」
と、さも羨《うらや》ましさうにしみ/″\した顔で言ふので、圭子も蓮見も気が咎めるくらゐだつた。圭子だけだつたら、そんな場合|屹度《きつと》連れて出たであらうと思はれた。
帰つて来たのは、九時頃だつた。咲子はと看ると、どこにもゐなかつた。
「咲子何うしたの。」
雛子が其処にゐて、
「咲ちやん表へ出ました。余り言ふこと聞かないから、出て行けつて言つたら、さつさと出て行つたんです。」
「どこへ行つたらう。」
「今に帰つて来ます
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