りで預ることにした。
 蓮見はといふと、彼は咲子に対する興味を、全く無くしてゐた訳ではなかつたし、かうなれば持久戦に入るより外なかつた。教会へでもやつたらとも考へたが、一度すつかり医者に診察してもらはうかとも思案した。それに生理的の欠陥は兎に角、何か一つの魂――正義感のやうなものを持つてゐるのも面白いし、彼が少し熱意をもつて言つて聞かせる場合、彼女の表情には明らかにそれに触れるらしい或る閃《ひらめ》きが認められるので、扱ひ方によつては、長い間には何うかなりさうな気もするのであつた。
「仕方がないさ。かういふものが飛びこんで来るのも、一つの縁だから、当分ぢつと見てゐるさ。」
 或る晩蝶子が出て行つたあとで、雛子にも口がかゝつて来た。咲子は躁《はしや》ぎ立つて、彼女の下駄をそろへたり、伝票を出したりした。
「雛子さん矢張り出るね。今日はこれで二つだ。」
「生意気いふな。あんたが儲《まう》かる訳ぢやないだろ。」
 雛子はいつもの調子だつた。咲子は鏡に映る彼女の黒ダイヤのやうな大きい瞳《ひとみ》を覗きこんで、にこ/\してゐた。
「うむ、雛子姐さん矢張り美しい。」
「美しくなんかあるもんか。」
 雛子は褄《つま》をつまんで出て行つた。
 ちやうど圭子が風呂へ行つてゐたので、咲子が雛子の脱ぎ棄ての村山大島と安錦紗《やすきんしや》の襲《かさ》ねを取りあげて畳まうとしたが、ちよつと匂ひをかいで見て、
「うむ臭い!」
 と言つて、平べつたい鼻に皺《しわ》を寄せた。そして畳むかはりに、くる/\と丸めて押入の隅へ投《はふ》りこんでしまつた。
「臭いか。」
 蓮見がきくと、
「臭い!」
「お前のお父さんの部屋は、迚《とて》も臭かつたぜ。あんな汚ない蒲団のなかで、熟柿《じゆくし》くさいお父さんに抱かれて寝てゐても臭くなかつたのか。」
「臭くないんです。好い匂ひなんです。」
「あれは何の臭気《にほひ》だい。」
「私ね、おしつこすると、お父ちやんが翌朝外へ出して干すの。さうすると綿がふか/\して、迚もいゝ気持なんです。」
「寝小便するのか。」
「することもあるんですけれど、目がさめた時は、下へ行くの暗くて恐《こは》いから、七輪のなかへするんです。」
「それだとお灸《きう》もんだね。」
「をぢさんは?」
「子供の時から一度もしない。」
「ふむ!」咲子はぢつと彼を見てゐた。
 やがて咲子は玄関脇の二畳へ入つて、寝床に就いた。
 翌朝九時頃に、圭子が戸を開けに下へ下りて行くと、昨夕たしかにかけた戸の鍵が下つてゐた。多分咲子が明けたのだらうと思つて、讃めてやるつもりで、二畳の障子をあけて見ると、咲子の頭は見えないで、何か潜《もぐ》りこんでゐるやうな、蒲団が丸く脹《ふく》れてゐた。
「咲子!」
 圭子が声かけて、窃《そつ》とめくつて見ると、咲子はゐないで、敷蒲団は一杯の洪水であつた。多分昨夕の蓮見の話で、寝小便やお灸《きう》のことばかり夢みてゐたので、こゝへ来てから長いあひだの経験か父親の戒《いまし》めかで、夜になると湯水を怺《こら》へてゐたせゐで、一度も失敗《しくじ》つたことのなかつたのが、つい取りはづしたものらしかつた。
 そして其きり彼女は姿を見せなかつた。
 兄の運転手の細君につれられて、彼女が救世軍の手に取りあげられたことが解つたのは、それから五日ばかり経つてからであつた。
 咲子は今どこに何をしてゐるか。社会局の人の話によれば、圭子に引取つてもらひたいが、引取る意思がなければ、健康診断をした上、児童保護所へでも送りこむより外、道がなかつた。そして其が太鼓をたゝいて、巷《ちまた》に慈善を哀求してゐる救世軍の仕事なのであつた。この救世軍の仕事は、社会生活の根本へ遡《さかのぼ》ることをしないで、さうした現象に対して到《いた》るところの抱へ主に個人的な私刑を課するやうなものだつた。――無論圭子は引取りはしなかつた。
[#地から1字上げ](昭和十年六月)



底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
   1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「改造」
   1935(昭和10)年6月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
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