咲子の番は遅かつた。しかしいくら勝手な彼女でも、そこまで考へる筈はなかつた。たゞちよつと奇抜な芸当をやつて見せたに過ぎないのであつたが、可なりの時間を水風呂のなかに立つて、えへゝ笑つてゐるのであつた。
「何しろ少し変だわよ。」
 蓮見はこの子供の一番上の兄が、気が狂つて松沢にゐることを思ひ出した。二番の兄は運転手だつた。この二人の兄は、咲子と、今一人の仕込みに行つてゐる彼女の姉と、父を異にしてゐた。彼等の母は、咲子の三つの年死んだ。

 再び圭子のところへ帰つて来た。
 咲子は蓮見の家へやられた時、広いので悦《よろこ》んでゐた。
「うむ、これならをぢさんのとこ好い家だ。」
 彼女は幸福さうだつたが、違つた環境の寂《さび》しさが段々しみて来た。悪戯《いたづら》は出来ないし、柄《がら》にあふ女達も近所にはなかつた。行儀や言葉づかひを直されるのも、気窮《きづま》りで仕方がなかつた。圭子のところで、いつも謳《うた》つてゐた「奴《やつこ》さん」だとか、「おけさ踊るなら」も、人々の笑ひの種子《たね》だつた。口にしつけた焼鳥や蜜豆も喰べられないし、毎日の楽しみだつた八飴を嘗《な》めに行くなどは思ひも
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