や丼を台所へ持出した。そこへ電話のベルが鳴つた。咲子は押入の前にある電話機に駈けよつて、畳につく這《ば》ひながら、悪戯《いたづら》さうな表情で受話機を耳のところへ持つて行つた。
「駄目よ、駄目よ。」
「むゝん、ちよつと聞かさして……。」
圭子は微笑《ほゝゑ》ましげに見てゐたが、まごついてゐるのに気がつくと、急いで受話器を取りあげた。
「何方《どちら》さまでせうか。……はあ有ります。どうも有難とう。」
圭子は受話器をかけて、
「蝶子さん月の家《や》!」
手捷《てばし》こく顔直しをした蝶子の仕度が初まると、咲子は圭子と一緒に立ちあがつて、さも自分が悉皆《すつかり》それを心得てゐるもののやうに、「それをぐる/\捲くのね」とか、「今度これでせう」とか言つて、蓙《ござ》のうへに一緒くたに取り出された帯揚を取りあげたりした。
「駄目よ、あんた邪魔つけだわよ。」
でも咲子はなか/\引込んでゐなかつた。
「あたいお父ちやんに教はつたんだから……。」
「下駄そろへときなさい。」
「母ちやん私も蝶子さんについて行つて可いでせう。」
「さうね、お出先き覚えときなさい。」
そして仕度が出来あがると、心得たもので、咲子は爪立して、けんどん[#「けんどん」に傍点]のうへから燧石《ひうちいし》を取りおろすと、下駄を穿《は》いてゐる蝶子の後ろからかち/\切火をして、皆んなを笑はせた。
「こいつは大したもんだ。何だか子供らしくないね。」
「でも少し気の利《き》いた子は、皆んな面白がつて、あの位のことするものよ。」
「どこか商売屋にゐたんだね。」
「さうかも知れないわ。あの子の姉さんが十五で余所《よそ》へ仕込みに住みこんでるさうだから、そこで覚えたんでせう。」
咲子は息急《いきせ》き帰つて来た。
「あゝ可かつた。これで皆んな極まつたんだ。」
蓮見は知らんふりして火鉢のうへで大衆雑誌を拡げて読んでゐたが、咲子は熱心に芸者の玉《ぎよく》のことなぞ圭子に聞くのだつた。
「あゝ、さうすると一時間が三本で、二時間になると四本ですか。それから三十分、三十分に一本ですね。」
「さうよ。」
「一本いくらですか。」
「貴方子供の癖に、そんなこと聞かなくたつて可いわよ。」
咲子は肩をすぼめて、「ひゝ」と笑つた。
「お父ちやんお医者さまですか。」
「お父ちやんといふんぢやないよ。」
蓮見が少し不快さうに言ふと、
「だつて此方がお母ちやんでせう。」
「でも、をぢさんといへば可いの。をぢさんには沢山子供さんがあるのよ。」
「あゝ、さうか。ぢやをぢさんとお母ちやん結婚してないの。解つた。ぢやをぢさんに奥さんがあるんだ。」
「ないんだ。」
「ないの! 死んぢやつたんですか。」
「さうよ。」
「あゝ解つた。ぢやあお母ちやんは……。」咲子は独りで呑み込んで、
「ぢやをぢさん先刻《さつき》家《うち》から来たの。こゝにゐるんぢやないの。」
「ゐることもあるし……。」
咲子は圭子を指して、
「お母ちやん今に棄てられる。」
「馬鹿!」
「さお早くお寝なさい。蒲団出してあるから、自分で敷いて……。」
「むうん、眠くないんです。」
蓮見は何か気味悪さうに、しみ/″\子供の顔を見てゐたが、むづと頭を掴《つか》んだ。
「抽斗頭《ひきだしあたま》だね。おれもさうだが……。鼻も変だね、こゝんとこが削《そ》いだみたいで。」
「をぢさんの鼻だつてさうですよ。」
咲子は負けない気で主張した。
日がたつに従つて、この子供の特異性が次第にはつきりして来た。貧乏でも、別にさう悪くは育つてゐないどころか、事によると乱次《だらし》のない父親の愛情がさうさせたものらしい、子供にしては可愛気のない矜《ほこ》りのやうなものが、産れつきの剛情と一つになつて、それをどこまでも枉《ま》げまいための横着さといふものがあつて、何うかすると、現実的な利益の外には、どこまで掘つて行つても、他人の愛情の手に縋《すが》るとか、飛びつくといつたやうな可憐《いぢら》しさは微塵《みぢん》もなかつたが、決して卑屈ではなかつたし、柔順では尚更なかつた。後で段々わかつたことだが、圭子と同じやうな商売屋を既に三十軒も引き廻はされて来たくらゐだから、彼女はどこに落ちついて眠り、誰の手に縋つていゝか解らなくなつてゐるのに無理はなかつたが、それは環境が段々さうさせた事には違ひないとは言へ、そんなに多勢の人に見切りをつけられるのには、理由がなくてはならなかつた。
圭子もこの子の行先を考へると、ちよつと恐しいやうな気がした。わづか十年しか此世の風に曝《さら》されてゐない咲子は、或る意味で既に一つの完成品に凝《かた》まりかけてゐるやうに思へたが、年と共に其のなかにあるものが成長して行くことを考へると、何をされるか解らないやうな不安を感じて、半分厭気が
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