差して来た。蓮見はその反対に寧《むし》ろ興味を感じはじめてゐたが、興味と実際問題とは別であつた。何《ど》うせ堅気の生活は出来ないやうに出来てゐるとすれば、この子の棲《す》む世界は矢張りかう言つた特殊の環境だらうが、巧《うま》く行けば何処か水商売の女将くらゐにはなれさうに思へたが、そのルムぺン性は海外へでも出て働くのに悪くはないだらうとも思へた。
「あたいが芸言になれば、うんと働いてお父ちやんにお金やる。」
咲子はさう言つて、高慢な身振をするのだつたが、顔にも自信をもつてゐて、さういふ家ばかり歩いて来たからには違ひないが、毎日風呂へ行くことと、黙つて見てゐれば、蝶子や雛子たちの鏡台の前にちよこなんと坐りこんで、白粉やクレイムを塗るのも好きであつた。
しかし咲子は時々父親のことだけは思ひ出すものと見えて、「お父ちやんまだ下谷にゐるんですか」と圭子に聞き聞きした。
「もう田舎へ帰つたでせう。」
「でも、帰る前に屹度《きつと》一度は私に逢ひに来ると言つてゐたんです。」
「でも、あの時直ぐにも立つやうに言つてゐたでせう。渡辺のをぢさんが……。」
「ぢや私《あたい》のお父ちやん嘘吐《うそつ》きだ。私を瞞《だま》したんだ。」
咲子は真剣な目をした。
「お父ちやん私を売つたんでせう。」
「別に売つた訳ぢやないわよ。お金がなくちや田舎へ帰れないといふから上げたのよ。」
彼女は父親がまだ下谷のブリキ屋の二階にゐるやうな気がしてならなかつた。そして来た当座、毎日こゝに逢ひに来る彼を待つてゐるものらしかつたが、圭子の処へ子供を寄越して、父親が悉皆《すつかり》安堵《あんど》してゐることは渡辺の話で圭子には解つてゐた。
子供が来た翌日、圭子の母親は、末つ子の着古した洋服や、メリンスの綿入れや、途中で買つたメリヤスのズボンにシャツ、下駄などを一トそろひ持ちこんで来て、どくどくに汚れてゐる着物を脱がし、大人の着るやうな胴着や、ばかに厚ぼつたくて大きい腰巻を取つて、着替へをさせたものだが、田舎風のぬけない圭子の母親を少し馬鹿にしたやうな調子で、なか/\手がかゝつたし、着せるものにも余り満足しないやうな風なので、母親は一度で懲《こ》りてしまつた。圭子の妹達は、皆な親が感謝してもいゝやうな子供であつた。
それゆゑ咲子は人には懐《なつ》きにくい質《たち》の女で、それだけ自分の父親は愛してゐた。何か父親に裏切られたやうな気がしながら、理解はもつてゐるものらしく、
「あたい一度お父ちやん助けてやつたんだから、これで可いや。」
と其時はさう言つて呟いてゐたが、花柳界の習はしは、大体頭へ入つてゐるので、今五六年もたてば、芸者として一ぱし働く積りだつた。蓮見はそれが小憎《こにく》らしいやうな気もした。
「お前、芸者には駄目だよ。」
「何故ですか」
と言ひさうに咲子は彼を見たが、さういふ時の目は余り感じがよくなかつた。
咲子は蓮見の注意したとほり、ひどいトラホームで、その上近眼なことが、近所の眼科でわかつたので、二回ばかり焼いてもらつて、毎日家で薬を注《さ》すことになつてゐたが、思ひのほか費用がかゝるので、少し遠かつたけれど、圭子は最初蓮見一家のかゝりつけへ行つたが、更に神田の方の病院へつれて行つた。そこでは焼いたり切つたりするのは、徒《いたづ》らに目蓋《まぶた》を傷つけるばかり、反《かへ》つて目容《めつき》を醜くするし、気永に療治した方がいゝといふので、其の通りにしてゐるのであつた。それに圭子は半ばこの子に絶望もしてゐたので、さう手をかけても詰らないと思ふやうになつてゐた。彼女は近所の子供の、洋服にランドセイルを背負つた学校通ひの姿を、いつも羨《うらや》ましいものに思つてゐたので、咲子が来るとすぐ学校のことを人に聴き合せたのであつたが、大抵この界隈《かいわい》では夜学へやるのが多かつた。好い学校は少し遠くもあるし、夜の商売なので、朝早く出してやるには女中もおかなければならなかつた。誰か子供好きの女中が見つかるまで当分夜学へやらうかと考へてゐたが、その夜学も、思つたより風紀がわるくて、反つて子供の純白さが汚され、飛んだ不良になりがちだことを、経験者から教へられたので、それも考へものだと思つてゐた。何よりもトラホームが問題であつた。医者は雑誌など読ませないやうに、風呂へも長くいれては悪いし、御飯も咲子の不断の習慣の、三度々々の大盛の三杯を、二杯に減らした方がいゝといふので、出来るだけさうさせるやうにしてゐたが、何うかすると病院へ行くのを厭がつたり、自分で出来る洗滌《せんでう》も、成るべくずるけてゐたい方であつた。圭子はよく彼女を捉《つかま》へて、注《さ》し薬《ぐすり》をたらして滲《し》みこませるために、目蓋《まぶた》を剥《む》きかへして、何分かのあひだ抑へてゐる
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