のであつたが、片目の目脂《めやに》が少し減つたと思ふと、今度は他の片方が悪くなつたりして、いつ快《よ》くなるか解らなかつた。トラホームは絶対に癒《なほ》らないと言ふものもあつた。
雛子が時々読本や算術をさらつてやつてゐた。咲子は何か美しいものには魅力を感ずるらしく、何うかすると大口を開いて、雛子の顔に見惚れてゐることもあつたが、お子姓《こしやう》のやうな顔をして、乱暴な口を利きながら、教鞭《けうべん》の代りに二尺|差《ざ》しを手にしてゐる雛子の前で、小型の餉台《ちやぶだい》に向つて、チビはしや嗄《が》れたやうな太い声をはりあげて、面白い節をつけて、柄にない読本を読むのであつた。浪花節《なにはぶし》でもやりさうな咽喉《のど》であつた。
「こら胡麻化《ごまか》しちやいけない。」
雛子は男のやうに口をきいて、咲子を笑はせた。
「雛子|姐《ねえ》さん学校何年やつた?」
「そんなこと聞かなくとも宜《よろ》しい。芸者はラブ・レタさへ書ければいゝんだ。」
「あゝ、ラブ・レタ、雛子姐さんも彼氏のところへラブ・レタやる?」
皆んなが呆れてどつと笑つた。
「ラブ・レタつて何だか知つとるか。」
咲子はへ、へと笑つた。
「君のやうなおませは、学校の先生も嘸《さぞ》手甲摺《てこず》つたことだらう。」
「え、さうです。それに誰も私と遊んでくれないんです。」
それよりも、咲子は大人のやうな抑揚《めりはり》のある調子で、講談本を読むのが巧かつたし、侠客や盗賊の名前も能《よ》く知つてゐた。片目を瞑《つぶ》つて丹下左膳の真似もしたし、右太衛門とか好太郎とか、千恵蔵とか、飯塚とし子、田中絹代などの名前も口にした。誰れが好きなのかはわからないにしても、圭子と雛子に長唄をさらひに来る若い師匠には、何か憧《あこが》れのやうな気持をもつてゐて、自身で口から顎《あご》のあたりを撫ぜながら、
「お師匠さんのこゝんとこ、私大好きさ。」
言ふくらゐだから、ませてはゐるのであつた。
講談本を好かない圭子は、そこらにある雑誌をみんな隠してしまつたが、馬鹿々々しい少女物をわざ/\買つて当がふ気にもなれなかつた。総ては目が癒つてからのことだし、育てるか何うかも決定した上のことだと思つてゐた。
それに何よりも厭なことは、この子の見え坊なことであつた。抱への座敷着を見る目にも、さう言つた慾望が十分現はれてゐたし、まだ道具などの不揃ひがちな、圭子の部屋にも、或る飽足りなさを感じてゐて、今まで見て来た家で、裕福さうな綺麗な家のことを思ひ出してゐるらしかつた。
不断口数の少ない圭子は、咲子が来てから、朝から夜まで何か小言を言つてゐなければならなかつた。近所の男の子に追つかけられて、入口の硝子戸《ガラスど》に石を投げられたり、圭子が警告されたほど、居周《ゐまは》りの家へ入りこんでお饒舌《しやべり》をしたり、又は遠走りをしたり、八飴屋《はちあめや》の定連であつたりするのは可いとして、圭子の娘として、抱への人達を、奉公人のやうに見下す気持から圭子の留守の時は、何一つ彼女達の言ふことを素直に聞いたことはなかつた。
或る晩圭子は蓮見と一緒に、時節の半衿《はんえり》や伊達巻《だてまき》のやうな子供たちの小物を買ひに、浅草時代の馴染《なじみ》の家へ行つて、序でに咲子の兵児帯《へこおび》や下駄なども買つた。
「ここにセイラ服があるけれど、あの子の貯金がいくらか溜つたら買つてあげるつて言つてゐるの。其は其として、安いものだから一つ買つてもいゝんだけれど、あの子も余り可愛気がなさすぎるから……。」
圭子は店頭に立つて、暫く洋服やスエタアの飾窓を眺めてゐた。蓮見も思はないことはなかつたが、長年デパアトで子供洋服の見立をやつて来てゐたので、何か億劫《おくくふ》であつた。甘やかせば甘やかすほど附けあがる咲子の性質も気に入らなかつた。此頃彼女は圭子をも舐《な》めてかゝつてゐた。何《ど》んなに眠いときでも、蓮見がおこすと、渋くりながらも便所へも立つのであつたが、圭子では世話を焼かすばかりであつた。
圭子と蓮見は、買ひものがてら、見たい映画を見たのであつたが、今日のやうに二人そろつて外出する場合、咲子は箪笥《たんす》から着物を出してゐる圭子の後ろへまはつて、
「お母ちやんいゝね。」
と、さも羨《うらや》ましさうにしみ/″\した顔で言ふので、圭子も蓮見も気が咎めるくらゐだつた。圭子だけだつたら、そんな場合|屹度《きつと》連れて出たであらうと思はれた。
帰つて来たのは、九時頃だつた。咲子はと看ると、どこにもゐなかつた。
「咲子何うしたの。」
雛子が其処にゐて、
「咲ちやん表へ出ました。余り言ふこと聞かないから、出て行けつて言つたら、さつさと出て行つたんです。」
「どこへ行つたらう。」
「今に帰つて来ます
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