何か父親に裏切られたやうな気がしながら、理解はもつてゐるものらしく、
「あたい一度お父ちやん助けてやつたんだから、これで可いや。」
と其時はさう言つて呟いてゐたが、花柳界の習はしは、大体頭へ入つてゐるので、今五六年もたてば、芸者として一ぱし働く積りだつた。蓮見はそれが小憎《こにく》らしいやうな気もした。
「お前、芸者には駄目だよ。」
「何故ですか」
と言ひさうに咲子は彼を見たが、さういふ時の目は余り感じがよくなかつた。
咲子は蓮見の注意したとほり、ひどいトラホームで、その上近眼なことが、近所の眼科でわかつたので、二回ばかり焼いてもらつて、毎日家で薬を注《さ》すことになつてゐたが、思ひのほか費用がかゝるので、少し遠かつたけれど、圭子は最初蓮見一家のかゝりつけへ行つたが、更に神田の方の病院へつれて行つた。そこでは焼いたり切つたりするのは、徒《いたづ》らに目蓋《まぶた》を傷つけるばかり、反《かへ》つて目容《めつき》を醜くするし、気永に療治した方がいゝといふので、其の通りにしてゐるのであつた。それに圭子は半ばこの子に絶望もしてゐたので、さう手をかけても詰らないと思ふやうになつてゐた。彼女は近所の子供の、洋服にランドセイルを背負つた学校通ひの姿を、いつも羨《うらや》ましいものに思つてゐたので、咲子が来るとすぐ学校のことを人に聴き合せたのであつたが、大抵この界隈《かいわい》では夜学へやるのが多かつた。好い学校は少し遠くもあるし、夜の商売なので、朝早く出してやるには女中もおかなければならなかつた。誰か子供好きの女中が見つかるまで当分夜学へやらうかと考へてゐたが、その夜学も、思つたより風紀がわるくて、反つて子供の純白さが汚され、飛んだ不良になりがちだことを、経験者から教へられたので、それも考へものだと思つてゐた。何よりもトラホームが問題であつた。医者は雑誌など読ませないやうに、風呂へも長くいれては悪いし、御飯も咲子の不断の習慣の、三度々々の大盛の三杯を、二杯に減らした方がいゝといふので、出来るだけさうさせるやうにしてゐたが、何うかすると病院へ行くのを厭がつたり、自分で出来る洗滌《せんでう》も、成るべくずるけてゐたい方であつた。圭子はよく彼女を捉《つかま》へて、注《さ》し薬《ぐすり》をたらして滲《し》みこませるために、目蓋《まぶた》を剥《む》きかへして、何分かのあひだ抑へてゐる
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