晴代に恋愛の思ひ出があるとしたら、あれなぞは中でも最も混《まじ》り気《け》のないものかも知れなかつたが、長いあひだの商売で、散々に情操を踏みにじられて来ても、まだそんなものが彼女の胸にいくらか残つてゐるらしかつた。
 木山は晴代と一緒になつたから、ぐれ[#「ぐれ」に傍点]出したのだと、木山の従兄《いとこ》の、女給あがりの細君が、蔭口を吐いてゐることも、晴代の耳へ入らない訳には行かなかつたし、さうすると私の遣り方がまづいのか知らなぞと、時には思ひ返して見たりするのだつたが、それよりも母親に気に入られてゐたので、季節々々の着物や草履、半衿のやうなものを貰つたり、木山には内密《ないしよ》で小遣ひを渡されたりしてゐたので、晴代はその手前二人の襤褸《ぼろ》は見せたくないと思つてゐた。
 すると大晦日《おほみそか》の晩、木山はその日は朝から集金に出かけて行つたが、たとひ何《ど》んなことがあつても二千円の金は持つて来なければならない筈であつた。取引き上のことは、木山も一切話さなかつたし、晴代も聴かうとはしないのだつたが、この頃になつて、時には二人の間にそんな話も出るので、晴代もいくらか筋道が呑み込め
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