で半玉から一本に成りたての頃から、隙《ひま》さへあると外国物それも重にイタリイやアメリカものの上演される水天宮館へ入り侵つてゐたもので、メリイ・ピックフォードやウヰリアム・ヱス・ハート、特に好きなのはフランシス・ブッシュマンだつたが、それはずつと昔しのこととして、木山とお馴染《なじみ》になつてからも、写真の替り目替り目には何をおいても映画館へ入ることにしてゐたが、木山も何うかすると独りであの館から此の館へと、プログラムが三つもポケットから出るやうなこともあつて、その内の好いものを後《あと》で晴代にも見せるやうにしてゐたものだが、育つた世界が世界なので歌舞伎《かぶき》の座席に納まつて、懐かしいしやぎり[#「しやぎり」に傍点]や舞台裏の木の音に気を好くしてゐる時の方が生《い》き効《がひ》があるやうに思へた。
 まだ世帯の持ちたてだつたが、晴代も時々誘はれた。晴代は女に成りたての十八九の頃、年の若い一人の株屋を座敷の旦那に持たせられてゐたが、その男には既に女房があつて、晴代を世話するのもさう云ふ社会の一つの外見《みえ》で、衣裳《いしやう》や持物や小遣ひには不自由を感じないながらに、異性の愛情らしいものがなく、何か翫弄《おもちや》にされてゐるやうな寂《さび》しさと侮辱とを感じてゐたので、つい中途から遊び上手の芝居ものの手にかゝつて、その関係が震災の後までも続いたくらゐなので、歌舞伎の世界の空気や俳優たちの生活も知つてゐたから、芝居も万更《まんざ》ら嫌ひではなかつたけれど、銀幕に吸ひついたり飜訳小説に読み耽《ふけ》つてゐる時ほど、気持に直《ぴつた》り来なかつた。
 すると未《ま》だ世帯の持ち立ての、晴れて対《つゐ》で歩くのが嬉しい頃、明治座を見物した時のこと、中幕の「毛抜」がすんで、食堂で西洋料理を食べるまでは可かつたが、食堂を出た頃から晴代は兎角《とかく》木山の姿を見失ひがちで、二番目の綺堂物《きだうもの》の開幕のベルが鳴りわたつたところで、多分木山がもう座席で待つてゐるだらうと、一人で買つたお土産《みやげ》の包みをかゝへて観覧席へ入つて来たが、木山はまだ席に就いてはゐなかつた。晴代もそんな事はさう気にならない質《たち》なので、ひよい/\出歩くいつもの癖だくらゐに思つてゐたが、余りゆつくりなので気にかゝり出した。木山はその一幕のあひだ到頭《たうとう》入つて来なかつたが、さうなると晴代も探してあるくのも厭で、知らん振りして次の幕が開くまで座席で筋書を読んで寂しさを紛《まぎ》らしてゐた。
「何うしてゐたの。」
「うん、ちよつと……。」
 それきりで孰《どつち》も何とも言はなかつたが、その後も木山は善く芝居の切符を屹度《きつと》二枚づゝ買つて来るので、同伴してみるとそれが何時でも神楽坂《かぐらざか》の花柳界の連中《れんぢゆう》の日であるのが不思議であつた。その度に晴代から離れて待合の女中などと廊下で立話をしてゐる木山の姿が目についたが、その中には木山の顔馴染《かほなじみ》らしい年増芸者の姿もみえた。晴代は座敷で逢《あ》ふ男の社会的地位や、人柄に気をつける習性がいつかついてゐて、男性には自然警戒的な職業心理が働くのだつたが、相手の言動を裏まで探つたり疑つたりするのが嫌ひだつたので、木山が何か話せばだが、黙つてゐる場合にわざ/\此方から問ひをかけるやうな事は出来なかつた。何か自身を卑しくするやうな感じもあつたが、聴いたところで何うにもならない事も承知してゐた。よく/\切端《せつぱ》つまつた場合の外は黙つてゐた。それに木山にも若いものの友達附合ひといふこともあるので、それを一々気にしてゐては際限がなかつた。
 いつだつたか、四五人ある友達のなかでも、殊に気のあつてゐる、或る大問屋の子息《むすこ》の真木政男が始終店へ遊びに来て、帳場で話しこんでゐた。真木は金の融通をしてもらふこともあつたし、材木を借りることもあるらしかつた。二人は商売上の話もしたが、遊びや女の話、仲間の噂《うはさ》も出た。その若者も既に女房もちだつたが、浅草辺にも一人|落籍《ひか》せた女があつた。彼等に取つては結婚したり、一人や二人女をもつたからと言つて、友達附合ひをしないのは、若いものの恥のやうに思はれてゐた。
「緑ちやん、君に言伝《ことづて》があるんだよ。」
 真木は茶の間にゐた晴代がちよつと座を立つたところで言ひ出した。
「君にあげようと思つて、買つておいた物があるんだとさ。近いうち行つてみない?」
 晴代は台所で晩の仕度に取りかゝらうとしてゐたが、遊びに誘ひ出しに来たのではないかと云ふ気もしてゐたので、耳の神経だけは澄ましてゐた。別に孰《どつち》からも何とも口をきかないうちに、あの辺に一人くらゐ馴染のあることも公然の秘密みたいになつてゐたけれど、晴代は朧《おぼろ》げに想像し
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