やうに思つた。
何時か三年目の晦日《みそか》が来て、晴代も明ければ既に二十六だつた。遠い先きのことや深いところは兎に角、差し当つたことを、何によらず傍目《わきめ》もふらずに、てきぱき片着けて行かなければ気のすまない彼女に、今日といふ観念の少しもない、どんな明日を夢みてゐるのか解らない木山の心理などの解りやうもなかつたが、何よりも男の愛情が疑はれて来た。二つ上だと言つてゐた年も、一つしか違はないことも解つて、それも若いものの、妙な気取りだことも呑《の》みこめるのだつたが、一緒に並んで歩いてゐると、彼はふと晴代を振りかへつて、「姉さんと歩いてるみたいだ」と言つては、極《きま》り羞《はづ》かしさうに離れて行くのも好い気持ではなかつたが、それよりも左褄《ひだりづま》を取つてゐた曾《か》つての自分に魅力はあつても、かひ/″\しく台所に働いたり洗濯をしたりきちん/\小遣帳をつけたりする今の自分に顰蹙《ひんしゆく》を感ずるのだらうかと、それも考へないことではなかつた。
「あの男はあれで私をもつて行く積りなのか知ら。」
晴代は或る時薫親子に打ち明け話をした。そして其の時薫から女給の生活について、大略《あらまし》話をきいた。年齢について考へさせられてもゐたし、心の貞操までは売りものにしない積りでゐても、過去が過去なので、金持の二号とか、芸者屋稼業とか、一生薄暗いところで暮すのが厭だとしたら木山のやうな男も有難い方としなければならなかつた。晴代はこの結婚に大して花々しい夢をもたうとは思はなかつた。いつか一本になりたての、まだ決まつたパトロン格の男もなかつた頃に、三田出の東北の大地主の一人|子息《むすこ》がせつせと通つて来て、この頃晴子と言つてゐた晴代も、商売気はなれて、何か浮き立つやうな気持で、約束された結婚に青春の夢を寄せてゐたものだつたが、田舎《ゐなか》の方は田舎の方で別に縁談が進行してゐたところから、株券や現金のぎつちり詰まつたトランクを一つ持ちこんで、いつもの家の二階座敷に立て籠つてゐるうちに、追ひ駈けて来た未亡人の母親と番頭のために間《なか》を裂かれて、半歳余りの夢も粉々に砕かれてしまつた。その当時晴代は霊《たましひ》の脱殼《ぬけがら》のやうな体の遣《や》り場《ば》がなくて、責任を負はされてゐる両親や多勢の妹たちがなかつたら、きつとあの時死んでゐたらうと思はれる程だつた。晴代に恋愛の思ひ出があるとしたら、あれなぞは中でも最も混《まじ》り気《け》のないものかも知れなかつたが、長いあひだの商売で、散々に情操を踏みにじられて来ても、まだそんなものが彼女の胸にいくらか残つてゐるらしかつた。
木山は晴代と一緒になつたから、ぐれ[#「ぐれ」に傍点]出したのだと、木山の従兄《いとこ》の、女給あがりの細君が、蔭口を吐いてゐることも、晴代の耳へ入らない訳には行かなかつたし、さうすると私の遣り方がまづいのか知らなぞと、時には思ひ返して見たりするのだつたが、それよりも母親に気に入られてゐたので、季節々々の着物や草履、半衿のやうなものを貰つたり、木山には内密《ないしよ》で小遣ひを渡されたりしてゐたので、晴代はその手前二人の襤褸《ぼろ》は見せたくないと思つてゐた。
すると大晦日《おほみそか》の晩、木山はその日は朝から集金に出かけて行つたが、たとひ何《ど》んなことがあつても二千円の金は持つて来なければならない筈であつた。取引き上のことは、木山も一切話さなかつたし、晴代も聴かうとはしないのだつたが、この頃になつて、時には二人の間にそんな話も出るので、晴代もいくらか筋道が呑み込めてゐた。二千にしても三千にしても、荷主や親店への支払ひに持つて行かれるので、手につくのは知れたものだつた。千円も集まれば可い方だと思つてゐた。
晴代は年が越せるか何うかもわからないやうな不安と慌忙《あわたゞ》しさの中に、春を迎へる用意をしてゐた。父親や妹たちも来て手伝つてゐた。今年になつて初めて歳の市で買つて来た神棚や仏壇を掃除して、牛蒡締《ごばうじめ》を取りかへたり、花をあげたりした。
「私も二十六になるのかいな。」
年越し蕎麦《そば》を父と妹に饗応《ふるま》ひながら、晴代は上方言葉《かみがたことば》で自分を嗤《わら》つた。
父親は木工場からもらつたボオナスが少し多かつたので、お歳暮をきばつたのだつたが、若い時分から馬気違ひなので、競馬好きの木山とうま[#「うま」に傍点]が合つてゐた。父はこの秋の中山の競馬でふと木山に出逢《であ》つて、こゝで逢つたことは晴代には絶対秘密だと言つて、五十円くれたことがあつた。そんな話をしながら父は上機嫌だつたが、隣りの家主から二つ溜まつてゐる家賃の催促が来たところで、急に興ざめのした形で、妹を促《うなが》して帰つて行つた。
晴代の帯に挾んだ蟇口
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