なると晴代も探してあるくのも厭で、知らん振りして次の幕が開くまで座席で筋書を読んで寂しさを紛《まぎ》らしてゐた。
「何うしてゐたの。」
「うん、ちよつと……。」
それきりで孰《どつち》も何とも言はなかつたが、その後も木山は善く芝居の切符を屹度《きつと》二枚づゝ買つて来るので、同伴してみるとそれが何時でも神楽坂《かぐらざか》の花柳界の連中《れんぢゆう》の日であるのが不思議であつた。その度に晴代から離れて待合の女中などと廊下で立話をしてゐる木山の姿が目についたが、その中には木山の顔馴染《かほなじみ》らしい年増芸者の姿もみえた。晴代は座敷で逢《あ》ふ男の社会的地位や、人柄に気をつける習性がいつかついてゐて、男性には自然警戒的な職業心理が働くのだつたが、相手の言動を裏まで探つたり疑つたりするのが嫌ひだつたので、木山が何か話せばだが、黙つてゐる場合にわざ/\此方から問ひをかけるやうな事は出来なかつた。何か自身を卑しくするやうな感じもあつたが、聴いたところで何うにもならない事も承知してゐた。よく/\切端《せつぱ》つまつた場合の外は黙つてゐた。それに木山にも若いものの友達附合ひといふこともあるので、それを一々気にしてゐては際限がなかつた。
いつだつたか、四五人ある友達のなかでも、殊に気のあつてゐる、或る大問屋の子息《むすこ》の真木政男が始終店へ遊びに来て、帳場で話しこんでゐた。真木は金の融通をしてもらふこともあつたし、材木を借りることもあるらしかつた。二人は商売上の話もしたが、遊びや女の話、仲間の噂《うはさ》も出た。その若者も既に女房もちだつたが、浅草辺にも一人|落籍《ひか》せた女があつた。彼等に取つては結婚したり、一人や二人女をもつたからと言つて、友達附合ひをしないのは、若いものの恥のやうに思はれてゐた。
「緑ちやん、君に言伝《ことづて》があるんだよ。」
真木は茶の間にゐた晴代がちよつと座を立つたところで言ひ出した。
「君にあげようと思つて、買つておいた物があるんだとさ。近いうち行つてみない?」
晴代は台所で晩の仕度に取りかゝらうとしてゐたが、遊びに誘ひ出しに来たのではないかと云ふ気もしてゐたので、耳の神経だけは澄ましてゐた。別に孰《どつち》からも何とも口をきかないうちに、あの辺に一人くらゐ馴染のあることも公然の秘密みたいになつてゐたけれど、晴代は朧《おぼろ》げに想像し
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング