アのくれるウヰスキイを呑むと、直きに納まるのだつたが、その日は昼飯の時に食べた海老魚《えび》のフライにでも中《あ》てられたのか、ウヰスキイの効き目も薄かつた。コックの松山は、ちよつと見るとフランチョット・トーン張りの上品ぶつた顔をしてゐたが、肌触《はだざは》りに荒い感じがあつて、何うかすると酷《ひど》い恐い目をするのだつたが、晴代に失恋の悩みを聴いてもらつたところから、親しみが生じて、料理を特別に一皿作つてくれることも屡々《しば/\》あつた。昼飯の時間になると、ボオイが晴代のところへやつて来て、
「晴代さん、あんた皆なが食べてしまつた頃、一番後に来て下さいつて。」
年上だけに晴代もバアテンやコックには切れ離れよく気をつけてやつてゐた。
松山はもう三十四五の、女房も子もある男だつたが、さう云ふことが女に知れてから、逃げを打つやうになつた。晴代の来たてには、その女もまだ「月魄《つきしろ》」に出てゐて、何うかすると物蔭で立話をしてゐたり、二人揃つて出勤することもあつたが、何時の間にか女は姿を消してしまつた。
「僕は彼奴《あいつ》の変心を詰《なじ》つてやらうと思つて、ナイフを忍ばせてアパアトへ行つたもんですよ。ところが其の晩彼奴は何処かで、男と逢つてゐたんだね。彼奴の友達の部屋で夜明かし飲んで、朝まで頑張《ぐわんば》つてみたが、到頭《たうとう》帰つて来ないんだ。その相手の男も大凡《おほよそ》見当がついてゐるんだ。此処へも二三度来た歯医者なんだ。」
「止した方がいゝでせうね。そんな人追つかけて見たつて仕様がないぢやないの。それに貴方《あなた》は奥さんも子供もあるんでせう。」
「晴代さんでも逃げますか。」
「第一|瞞《だま》されないわ。」
晴代は気軽に解決したものの、考へてみると、妻があるとは知らないで、北海道まで一緒に落ちて行かうと思つた男が曾つて自分にもあつた。入り揚げた金に男も未練をもつたが、晴代も引かされた。しかし何か腑《ふ》におちない処があつた。親しい出先きから思ひついて電話をかけて見ると、出て来たのが細君であつた。そして晴代がさめて来ると、男は一層へばつて来た。それが晴代の最近の住替《すみかへ》の動機だつたが、或る日|一直《いちなほ》からかゝつて、馴染《なじみ》だと言ふので行つてみると、土地の興行界の顔役や請負師らしい男が五六人頭をそろへてゐるなかに、その男が
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