士の見えがあつた。今更ら人に追ひ使はれる気にもなれなかつた。しかし結局は親店の仕事を手伝ひ旁々《かた/″\》自分の儲け口を見つけるより外なかつた。しかし怠け癖のついた木山は、こつ/\初めから出直すといふ心構へには容易になれなかつた。夜遊びの癖を矯《た》めるのも困難だつたが、一度崩れたものを盛り返さうなどと云ふことは、考へるだけでも憂欝《いううつ》であつた。働いたものにしろ、甘い母親から貰つて来たものにせよ、少しでも懐ろに金が入ると、彼は浅草辺をふら/\した。何《ど》うせ追つかない世帯だと思ふと、持つて帰る気もしなかつたが、遊び気分は何といつても悪くなかつた。金離れのいい彼は到《いた》るところ気受けが好かつた。近所の麻雀《マージャン》ガールやゲーム取りにもちやほやされたが、家《うち》の人達とも家族的に能《よ》く晴代にお座敷をかけて遊んだ待合の女将《おかみ》や、いつも花の宿になつてゐる芸者屋、そこへ集まる役者、小料理屋の且那、待合のお神たちといつた連中にも、好い坊ちやんにされてゐた。
 その頃木山は、一時下火になつてゐた牛込の女が、ちやうど好い旦那を捉《つかま》へたところで、好い意味での紐か好い人《ひと》といつた格で、その辺で遊んでゐた。今日は仲間と一緒に請負ひの入札に行つた筈だと、晴代が思ひこんでゐると、朝方になつて裏口の戸を叩いたり、又は誰々と田舎へ山を見に行くと行つて、二日も三日も何処かにしけ込んでゐたりした。それに市の入札に行つた帰りなどに、極《き》まつて丸菱《まるびし》から買ひものをして来るのも可笑《をか》しかつた。菓子に鑵詰、クリーム、ポマアド、ストッキングにシャツ――包み紙はいつも丸菱であつた。彼は大の甘党で、夜床についてからも、何かしら甘いものを枕頭へ引寄せて、ぽつ/\食べてゐたが、しこたま買ひこんで来る丸ビルの丸菱の甘味は甘いもの嫌ひの晴代には、美味《うま》さうには見えなかつた。
 或る時晴代が晩飯の材料を買ひに出て、気なしに台所へ上つて来ると、真木がその日も遊びに来てゐて、話のなかに丸菱といふ言葉が連《しき》りに出るのが耳についた。晴代は前から変に思つてゐたので丸菱が何うしたのだらうと、ぢつと聴き耳を立ててゐたが、それが牛込の女の名だといふことが漸《やつ》とわかつた。
「何だ詰らない。」
 晴代は独りで可笑《をか》しがつたが、その女の顔が見てやりたい
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