に倚《よっ》かかって、組んだ手のうえに面《おもて》を伏せていた。疳癪《かんしゃく》まぎれに頭顱《あたま》を振たくったとみえて、綺麗《きれい》に結った島田髷の根が、がっくりとなっていた。お島は酒くさい熱い息がほっと、自分の顔へ通《かよ》って来るのを感じたが、同時に作の手が、脇明《わきあき》のところへ触れて来た。
「何をするんだよ」お島はいきなり振顧《ふりかえ》ると、平手でぴしゃりとその顔を打《ぶ》った。
「おお痛《いて》え。えれえ見脈《けんまく》だな」作は頬《ほお》っぺたを抑えながら、怨《うら》めしそうにお島の顔を眺めていた。
 髪結が来て、顔を直してくれてから、お島が再び座敷へ出て行った頃には、席はもう乱れ放題に乱れていた。お島はぐでぐでに酔っている青柳に引張られて、作の側へ引すえられたが、父親や養父の姿はもう其処には見えなかった。作は四五人の若いものに取囲まれて、連《しきり》に酒を強《し》いられていたが、その目は見据《みすわ》って、あんぐりした口や、ぐたりとした躯《からだ》が、他哩《たわい》がなかった。

     二十三

 その夜の黎明《ひきあけ》に、お島が酔潰《えいつぶ》れた作太郎の寝息を候《うかが》って、そこを飛出した頃には、お終《しまい》まで残ってつい今し方まで座敷で騒いで、ぐでぐでに疲れた若い人達も、もう寝静ってしまっていた。
 お島は庭の井戸の水で、白粉《おしろい》のはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の田圃道《たんぼみち》まで出て来たが、濛靄《もや》の深い木立際《こだちぎわ》の農家の土間から、釜《かま》の下を焚《た》きつける火の影が、ちょろちょろ見えたり、田圃へ出て行く人の寒そうな影が動いていたりした。じっとりした往来には、荷車の軋《きし》みが静かなあたりに響いていた。徹宵《よっぴて》眠られなかったお島は、熱病患者のように熱《ほて》った頬《ほお》を快い暁の風に吹《ふか》れながら、野良道を急いだ。酒くさい作の顔や、ごつごつした手足が、まだ頬や体に絡《まつ》わりついているようで、気味がわるかった。
 王子の町近く来た時分には、もう日が高く昇っていた。そこにも此処《ここ》にも烟《けむり》が立って、目覚めた町の物音が、ごやごやと聞えていた。
「今時分はみんな起きて騒いでるだろうよ」お島はそう思いながら、町垠《まちはずれ》にある姉の家の裏口の方へ近寄っていった。
 山茶花《さざんか》などの枝葉の生茂った井戸端で、子供を負《おぶ》いながら襁褓《むつき》をすすいでいる姉の姿が、垣根のうちに見られた。花畠の方で、手桶《ておけ》から柄杓《ひしゃく》で水を汲んでは植木に水をくれているのは、以前|生家《さと》の方にいた姉の婿であった。水入らずで、二人で恁《こう》して働いている姉夫婦の貧しい生活が、今朝のお島の混乱した頭脳《あたま》には可羨《うらやま》しく思われぬでもなかった。姉は自分から好きこのんで、貧しいこの植木職人と一緒になったのであった。畠には春になってから町へ持出さるべき梅や、松などがどっさり植つけられてあった。旭《あさひ》が一面にきらきらと射していた。はね釣瓶《つるべ》が、ぎーいと緩《ゆる》い音を立てて動いていた。
「長くはいませんよ、ほんの一日か二日でいいから」お島はそう言って、姉に頼んだ。そして、いきなり洗いものに手を出して、水を汲みそそいだり、絞ったりした。
「そんな事をして好いのかい。どうせお詫《わび》を入れて、此方《こっち》から帰って行くことになるんだからね」姉は手ばしこく働くお島の様子を眺めながら、子供を揺《ゆす》り揺り突立っていた。
「なに、そんな事があるもんですか。何といったって、私今度と云う今度は帰ってなんかやりませんよ」
 お島は絞ったものを、片端から日当《ひあたり》のいいところへ持っていって棹《さお》にかけたりした。日光が腫《は》れただれたように目に沁込《しみこ》んで、頭痛がし出して来た。
「またお島ちゃんが逃げて来たんですよ」姉は良人《おっと》に声かけた。
 良人は柄杓《ひしゃく》を持ったまま「へへ」と笑って、お島の顔を眺めていた。お島も眩《まぶ》しい目をふいて笑っていた。

     二十四

 晩方近くに、様子を探りかたがた、ここから幾許《いくら》もない生家《さと》を見舞った姉は、養家の方からお島を尋ねに出向いて来た人達が、その時丁度奥で父親とその話をしているところを見て帰って来た。それらの人を犒《ねぎら》うために、台所で酒の下物《さかな》の支度などをしていた母親と、姉は暫《しばら》く水口のところで立話をしてから、お島のところへ戻って来たのであった。
「島ちゃん、お前さん今のうちちょっと顔をだしといた方がいいよ」
 一日痛い頭脳《あたま》をかかえて奥で寝転んでいたお島の傍へ来て、姉は説勧《ときすす》めた。
 お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を拵《こしら》えて、田舎の方にいる兄のところへ遠《とお》っ走《ぱし》りをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、棄鉢《すてばち》な空想に耽《ふけ》ったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。
 姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。
「ふん、御父《おとっ》さんや御母《おっか》さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴《あいつ》等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ」お島はぷりぷりして呟《つぶや》きながら出ていった。
 外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の灯影《ほかげ》が水々して見えた。茶畑などの続いている生家《さと》の住居の周囲《まわり》の垣根のあたりは、一層静かであった。
 お島が入っていった時分には、もう衆《みんな》は弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》などをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は両親《ふたおや》の前へ出ると、急に胸苦しくなって、昨夜《ゆうべ》から張詰めていた心が一時に弛《ゆる》ぶようであった。
「御心配をかけて、どうも済みません」お島はそう言ってお叩頭《じぎ》をしようとしたが、筋肉が硬張《こわば》ったようで首も下らなかった。
「何て莫迦《ばか》なまねをしてくれたんだ」父親はお島に口を開《あ》かせず、いきなり熱《いき》り立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。

     二十五

 お島が数度《すど》の交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。
 お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に逆《さから》って、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、終《しまい》にお島の頭髪《たぶさ》を掴《つか》んで、彼女をそこに捻伏《ねじふ》せて打《ぶち》のめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔|利《き》きの口から、父親の耳へも入っていた。それらの人の話によると、安心して世帯《しょたい》を譲りかねるような挙動《ふるまい》がお島に少くなかった。金遣いの荒いことや、気前の好過ぎることなどもその一つであった。おとらと青柳との秘密を、養父に言告《いいつ》けて、内輪揉めをさせるというのもその一つであったが、総てを引括《ひっくる》めて、養家に辛抱しようと云う堅い決心がないと云うのが、養父等のお島に対する不満であるらしかった。
「だから言わんこっちゃない。稚《ちいさ》い時分から私が黒い目でちゃんと睨《にら》んでおいたんだ。此方から出なくたって、先じゃ疾《とう》の昔に愛相《あいそ》をつかしているのだよ」母親はまた意地張《いじっぱり》なお島の幼《ちいさ》い時分のことを言出して、まだ娘に愛着を持とうとしている未練げな父親を詛《のろ》った。
「こんなやくざものに、五万十万と云う身上《しんしょう》を渡すような莫迦《ばか》が、どこの世界にあるものか」
 太《ふ》てていて、飯にも出て来ようとしないお島を、妹や弟の前で口汚く嘲《あざけ》るのが、この場合母親に取って、自分に隠して長いあいだお島を庇護《かばい》だてして来た父親に対する何よりの気持いい復讎《ふくしゅう》であるらしく見えた。
 お島も負けていなかった。母親が、角張った度強《どづよ》い顔に、青い筋を立てて、わなわな顫《ふる》えるまでに、毒々しい言葉を浴せかけて、幼いおりの自分に対する無慈悲を数えたてた。目からぽろぽろ涙が流れて、抑えきれない悲しみが、遣瀬《やるせ》なく涌《わき》立って来た。
「手前《てめえ》」とか、「くたばってしまえ」とか、「親不孝」とか、「鬼婆」とか、「子殺し」とか云うような有りたけの暴言が、激《げき》しきった二人の無思慮な口から、連《しきり》に迸《ほとばし》り出た。
 そんな争いの後に、お島は言葉巧な青柳につれられて、また悄々《すごすご》と家を出て行ったのであった。

     二十六

 その晩は月は何処の森《もり》の端《は》にも見えなかった。深く澄《すみ》わたった大気の底に、銀梨地《ぎんなしじ》のような星影がちらちらして、水藻《みずも》のような蒼《あお》い濛靄《もや》が、一面に地上から這《はい》のぼっていた。思いがけない足下《あしもと》に、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は太息《といき》を洩《もら》した。道が人気の絶えた薄暗い木立際《こだちぎわ》へ入ったり、線路ぞいの高い土堤《どて》の上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に途断《とぎ》れ途断れに啼立《なきた》っていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、独《ひとり》で何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。
 けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、先刻《さっき》からお島が微《かすか》な予感に怯《おび》えていた青柳の気紛《きまぐ》れな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。
「ちょッ……笑談《じょうだん》でしょう」
 道傍《みちばた》に立竦《たちすく》んだお島は、悪戯《いたずら》な男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。
 甘い言《ことば》をかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。
「御母さんに叱られますよ」お島は軽《かろ》くあしらいながら歩いた。
「現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切|己《おれ》の掌《て》のうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて了《しま》おうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ」
 威嚇《いかく》の辞《ことば》と誘惑の手から脱《のが》れて、絶望と憤怒に男をいら立《だた》せながら、旧《もと》の道へ駈出《かけだ》すまでに、お島は可也《かなり》悶※[#「※」は「足+宛」、第3水準1−92−36、51−14]《もが》き争った。
 直《じき》にお島は、息せき家へ駈つけて来た。そしていきなり父親の寝室《ねま》へ入って行った。
「それが真実《ほんとう》とすれあ、己にだって言分があるぞ」いつか眠についていた父親は、床のうえに起あがって、煙草を喫《ふか》しながら考えていた。
「彼奴《あいつ》はあんな奴ですよ。畜生《ちきしょう》人を見損《みそこな》っていやがるんだ」お島は乱れた髪を掻《かき》あげながら、腹立しそうに言った。そして興《はず》んだ調子で、現場の模様を誇張して話した。父の信用を恢復《とりかえ》せそうなのと、母親に鼻を明《あか》させるのが、気色《きしょく》が好かった。

     二十七
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