もそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当擦《あてこすり》や厭味《いやみ》を言ったりして漸《やっ》と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮声《こわいろ》をつかって、先《さき》の処と名を突留めようと骨を折ったが、その効《かい》がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜疑《さいぎ》に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃《ほ》めている女が、片端から恋の仇《かたき》か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに揶揄《からか》われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑談《じょうだん》
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