》のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして漸《やっ》とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが気忙《きぜわ》しそうに旅行の支度を調えてからの昨夜《ゆうべ》であった。
「私何だか体の様子が可笑《おかし》いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、厠《かわや》へいって帰って来ると、漸《やっ》とうとうとと眠りかけようとしている良人の枕頭《まくらもと》に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ往来《ゆきき》の人の跫音《あしおと》がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。
「そいつぁ些《ちっ》と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の暢々《のびのび》した白い手をのばして、莨盆《たばこぼん》を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している体《からだ》であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰に
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