場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。
二日三日と日がたって行った。お島は頭髪《あたま》を丸髷《まるまげ》に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の余《よ》も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている良人《おっと》の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に育《はぐく》み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ牽《ひき》つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。
三十
麗《うららか》な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日|潰《つぶ》してお島と一緒に、媒介《なこうど》の植源などへ礼まわりをして、それからお島の生家《さと》の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、前《せん》の上
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