知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間服《あいふく》の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
 自分でも店を有《も》ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世帯《しょたい》を畳んで、また職人の群へ陥《お》ちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪刀《はさみ》を下《くだ》そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹《ひ》いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
 彼はそう云って、どんな忙《いそが》しい時でも下等な仕事には手をつけることを肯《がえん》じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
 お島も躯《からだ》の弱い
前へ 次へ
全286ページ中274ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング