その間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、函《はこ》をさげて飛込んで来るのに出逢った。
「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」
お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに惹着《ひきつ》けられて、つい話に※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1−85−32に包摂、105−2]《とき》を移したりした。
山越えに、××国の方へ渉《わた》ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ山《やま》の端《は》に消えうせぬ間《ま》を、軽々しい打扮《いでたち》をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。
「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」
お島は可羨《うらやま》しそうにその後姿を見送りながら、主婦《かみさん》に言った。
三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、老人気《としよりけ》のないこの家では、お島は比較的気が暢《のん》びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、希《まれ》には針仕事などを取出しているこ
前へ
次へ
全286ページ中146ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング