、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。
 いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。
「ええ。些《ちっ》とばかりの地面や木なんぞ貰《もら》ったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ」お島は跣足《はだし》で、井戸から如露《じょろ》に水を汲込みながら言った。
「好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ」
「憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた覚《おぼえ》なんかありゃしませんよ」
「そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、些《ちっ》とは直ったかと思っていれば、段々|不可《いけな》くなるばかりだ」
「余計なお世話です。自分が育てもしない癖に」お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。

     十四

 お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との紛紜《いさくさ》が気煩《きうるさ》さに、矢張《やっぱり》大きな如露をさげて、其方《そっち》こっち植木の根にそそいだり、可也《かなり》の距離から来る煤煙に汚れた常磐木《ときわぎ》の枝葉を払いなどしていたが、目が時々|入染《にじ》んで来る涙に曇った。
「お島さん、どうも済んませんね」などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。
「私はじっとしていられない性分だからね」とお島はくっきりと白い頬《ほお》のあたりへ垂れかかって来る髪を掻《かき》あげながら、繁《しげ》みの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた折檻《せっかん》の苦しみが、憶起《おもいおこ》された。四つか五つの時分に、焼火箸《やけひばし》を捺《おし》つけられた痕《あと》は、今でも丸々した手の甲の肉のうえに痣《あざ》のように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を抓《つ》ねられたり、妹を窘《いじ》めたといっては、二三尺も積っている脊戸《せど》の雪のなかへ小突出《こづきだ》されて、息の窒《つま》るほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を頒《わ》けるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が太々《ふてぶて》しいといって、何もくれなかったりした。土掻《つちかき》や、木鋏《きばさみ》や、鋤鍬《すきくわ》の仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、地鞴《じだんだ》ふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。
 父親は、その度《たんび》に母親をなだめて、お島を赦《ゆる》してくれた。
「多勢子供も有《も》ってみたが、こんな意地張《いじっぱり》は一人もありゃしない」母親はお島を捻《ひね》りもつぶしたいような調子で父親と争った。
 お島は我子ばかりを劬《いた》わって、人の子を取って喰《く》ったという鬼子母神《きしぼじん》が、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。
 日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、漸《やっ》と夕飯に入って来たが、父親は難《むずか》しい顔をして、いつか長火鉢の傍で膳《ぜん》に向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が這拡《はいひろ》がって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。
「まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ」父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を和《なだ》めているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。
「今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから」お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。切《せ》めて自分を養家へ口入した、西田と云う爺《じい》さんの行《や》っているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の閾《しきい》は跨《また》ぐまいと考えていた。食事をしている間《ま》も、昂奮《こうふん》した頭脳《あたま》が、時々ぐらぐらするようであった。

     十五

 或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある持地《もちじ》で、三四人の若い者を指
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