れられても身ぶるいがするほど厭であった。
 婚礼|談《ばなし》が出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。余所行《よそゆき》の化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。
「あっちへ行っておいで」お島はのしかかるような疳癪声《かんしゃくごえ》を出して逐退《おいしりぞ》けた。
「そんなに嫌わんでも可《い》いよ」作はのそのそ出ていった。
 作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の襖《ふすま》に心張棒《しんばりぼう》を突支《つっか》えておいたりしなければならなかった。
「厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です」お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。
「作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか」
 お島は仕切を取りに行く先々で、揶揄《からか》い面《づら》で訊《き》かれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、蓮葉《はすは》な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴《ものな》れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。
 それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。
「可《い》いじゃありませんか阿父《おとっ》さん、家の身上《しんしょう》をへらすような気遣《きづかい》はありませんよ」お島は煩《うる》さそうに言った。
「阿父さんのように吝々《けちけち》していたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ」
 ぱっぱっとするお島の遣口《やりくち》に、不安を懐《いだ》きながらも、気無性《きぶしょう》な養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。
「嘘ですよ」
 お島は作と自分との結婚を否認した。
「それでも作さんがそう言っていましたぜ」取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を瞶《みつ》めた。
「あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか」お島は鼻で笑っていた。
 王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。
「それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ」おとらは終《しまい》にお島に訊ねた。
「そうですね」お島はいつもの調子で答えた。
「私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。些《ちっ》とは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ」

     十三

 盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、直《じき》に養母が迎いに来た。
 お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か鮭《さけ》を提《たずさ》えて作が急度《きっと》お伴《とも》をするのであったが、この二三年商売の方を助《す》けなどするために、時には金の仕舞ってある押入や用箪笥《ようだんす》の鍵《かぎ》を委《まか》されるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも動《と》もすると自分に一種の軽侮《けいぶ》を持っている妹に、半衿《はんえり》や下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを矜《ほこ》りとした。姉や妹に限らず、養家へ出入《ではいり》する人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて喙《くち》を容《い》れられると、因業《いんごう》を言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、途《みち》でお島に逢うと、心から叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。
 大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が遊蕩《ゆうとう》を始めてから、また自分で稼業《かぎょう》に出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々|箸《はし》の上下《あげおろ》しに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の頭脳《あたま》をくさくささせた。
「そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては何《なん》にもありゃしないよ」
 母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな鉢《はち》が、幾個《いくつ》となく置駢《おきなら》べられてあった。庭の外には、幾十株松を育《そだて》てある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この界隈《かいわい》に散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として
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