た。
 お花という連《つれ》のある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、全然《まるで》除《の》けものにされていなければならなかった。
「じゃね、小父《おじ》さんと阿母《おっか》さんは、此処《ここ》で一服しているからね。お前は目がわるいんだから能《よ》くお詣《まい》りをしておいで。ゆっくりで可《い》いよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ満《つま》らないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね」
 おとらはそう言って、博多《はかた》と琥珀《こはく》の昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお賽銭《さいせん》をお島の小さい蟇口《がまぐち》に入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、母屋《おもや》から橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。
 それは丁度|初夏《はつなつ》頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、脊筋《せすじ》が汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、白粉《おしろい》の剥《は》げかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、躑躅《つつじ》が咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を候《うかが》うと、何となく気がつまって居辛《いづら》かった。そして小《ちいさ》いおりから母親に媚《こ》びることを学ばされて、そんな事にのみ敏《さと》い心から、自然《ひとりで》に故《ことさ》ら二人に甘えてみせたり、燥《はしゃ》いでみせたりした。
「ええ、可《よ》ござんすとも」
 お島は大きく頷《うなず》いて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。
 町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると直《すぐ》に田圃《たんぼ》道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い天刑病《てんけいびょう》者が、そこにも此処にも頭を土に摺《すり》つけていた。それらの或者は、お島の迹《あと》から絡《まつ》わり着いて来そうな調子で恵みを強請《ねだ》った。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで通過《とおりす》ぎた。

     七

 曲がりくねった野道を、人の影について辿《たど》って行くと、旋《やが》て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往来《ゆきき》している人や俥《くるま》の群に交って歩いていったが、本所《ほんじょ》や浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内儀《かみ》さんも偶《たま》には目についた。金縁《きんぶち》眼鏡をかけて、細巻《ほそまき》を用意した男もあった。独法師《ひとりぼっち》のお島は、草履や下駄にはねあがる砂埃《すなぼこり》のなかを、人なつかしいような可憐《いじら》しい心持で、ぱっぱと蓮葉《はすは》に足を運んでいた。ほてる脛《はぎ》に絡《まつ》わる長襦袢《ながじゅばん》の、ぽっとりした膚触《はだざわり》が、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは直《じき》に忘れていた。
 大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎《とら》や起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶっ切り[#「ぶっ」に傍点]飴《あめ》を鬻《ひさ》いでいたりした。蠑螺《さざえ》や蛤《はまぐり》なども目についた。山門の上には馬鹿囃《ばかばやし》の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太白飴《たいはくあめ》の店などを眺《なが》めながら本堂の方へあがって行ったが、何処《どこ》も彼処《かしこ》も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。
 そこを出てから、お島は野広い境内を、其方《そっち》こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田舎《いなか》廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙《ひま》を潰《つぶ》すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田舎爺《いなかじじい》の加持《かじ》のお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋燭《ろうそく》のあがった多くの大師の像のある処の前に彳《たたず》んでみたりした。木立の中には、海軍服を着た痩猿《やせざる》の綱渡《つなわたり》などが、多くの人を集めていた。お島はそこにも暫《しばら》く立とうとしたが、焦立《いらだ》つような気分が、長く足を止《とど》めさせ
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