うばごうし》にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、単衣《ひとえ》もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも極《きまり》のわるいほど、月が重っていた。
旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、幾《ほと》んど一日もなかった。偶《たま》に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、猥《みだ》らな端唄《はうた》の文句などを低声《こごえ》で謡《うた》って、一人で燥《はしゃ》いでいた。
「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の片《きれ》などを弄《いじ》りながら、傍で擽《くすぐ》ったいような笑方《わらいかた》をした。
「面白くでもない。北海道の女のお自惚《のろけ》なんぞ言って」
「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい襦袢《じゅばん》などを眺めていた。
「ちょいと、貴方《あなた》はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも訊《き》いてみた。
「どうせ私《あっし》には肖《に》ていまい。そう思っていれあ確《たし》かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。
「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を赧《あから》めた。「でも笑談《じょうだん》にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」
「此方《こっち》の身も可哀そうだ」
「それは色女に逢えないからでしょう」
二人の神経が段々|尖《とが》って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり跳起《はねお》きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。
今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの文《ふみ》が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。
「それは可笑《おか》しいの」姉は一つはお島を煽《あお》るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への嫉妬《しっと》のために、調子に乗って話した。
「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとや
前へ
次へ
全143ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング