お島が不断から目をかけてやっている銀さんと云う年取った車夫が、誰の指図《さしず》とも知れず、俥《くるま》を持って迎いに来たのは、お島たちが漸《やっ》と床に就こうとしている頃であった。
「何だ今時分……」玄関わきの部屋に寝ていたお島は、その声を聞つけると、寝衣《ねまき》に着替えたまま、門の潜《くぐ》りを開けに出たが、盆暮にお島が子供に着物や下駄を買ってくれたり、餅《もち》をついてやったりしていた銀さんは、どうでも今夜中に帰ってくれないと、家の首尾がわるいと言って、門の外に立ったまま動かなかった。
「きっと青柳と御母さんと相談ずくで、寄越したんだよ」お島は一応その事を父親に告げながら笑った。
 父親は、お島から養家の色々の事情を聞いて、七分通り諦《あきら》めているようであったが、矢張《やっぱり》このまま引取って了《しま》う気にはなっていなかった。作太郎と表向き夫婦にさえなってくれれば、少しくらいの気儘《きまま》や道楽はしても、大目に見ていようと云ったと云う養母の弱味なども、父親には初耳であった。
「芸人を買おうと情人《おとこ》を拵《こしら》えようとお前の腕ですることなら、些《ちっ》とも介意《かま》やしないなんて、そこは自分にも覚えがあるもんだから、お察しがいいと見えて、よくそう言いましたよ。どうして、あの御母さんは、若い時分はもっと悪いことをしたでしょうよ」お島は頑固な父親をおひゃらかすように、そうも言った。
 そんな連中《れんじゅう》のなかにお島をおくことの危険なことが、今夜の事実と照合《てりあわ》せて、一層|明白《はっきり》して来るように思えた父親は、愈《いよいよ》お島を引取ることに、決心したのであったが、迎いが来たことが知れると、矢張心が動かずにはいなかった。
「作さんを嫌って、お島さんが逃げたって云うんで、近所じゃ大評判さ」とにかく今夜は帰ることにして、銀さんは、漸《ようよ》うお島を俥に載せると、梶棒《かじぼう》につかまりながら話しはじめた。
「だが今あすこを出ちゃ損だよ。あの身|代《だい》を人に取られちゃつまらないよ」
「作の馬鹿はどんな顔している」お島は車のうえから笑った。
 家へ入っても、いつものように父親の前へ出て謝罪《あやま》ったり、お叩頭《じぎ》をしたりする気になれなかったお島は、自分の部屋へ入ると、急いで寝支度に取かかった。
「帰ったら帰った
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