すす》めた。
 お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を拵《こしら》えて、田舎の方にいる兄のところへ遠《とお》っ走《ぱし》りをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、棄鉢《すてばち》な空想に耽《ふけ》ったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。
 姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。
「ふん、御父《おとっ》さんや御母《おっか》さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴《あいつ》等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ」お島はぷりぷりして呟《つぶや》きながら出ていった。
 外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の灯影《ほかげ》が水々して見えた。茶畑などの続いている生家《さと》の住居の周囲《まわり》の垣根のあたりは、一層静かであった。
 お島が入っていった時分には、もう衆《みんな》は弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》などをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は両親《ふたおや》の前へ出ると、急に胸苦しくなって、昨夜《ゆうべ》から張詰めていた心が一時に弛《ゆる》ぶようであった。
「御心配をかけて、どうも済みません」お島はそう言ってお叩頭《じぎ》をしようとしたが、筋肉が硬張《こわば》ったようで首も下らなかった。
「何て莫迦《ばか》なまねをしてくれたんだ」父親はお島に口を開《あ》かせず、いきなり熱《いき》り立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。

     二十五

 お島が数度《すど》の交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。
 お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に逆《さから》って、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、終《しまい》にお島の頭髪《たぶさ》を掴《つか》んで、彼女をそこに捻伏《ねじふ》せて打《ぶち》のめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔|利
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