、四下《あたり》を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから岐《わか》れて伊香保《いかお》へでも行くらしい男女《おとこおんな》の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を悦《よろこ》ばせに行った小野田が思出された。不恰好《ぶかっこう》な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、都《すべ》て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。
「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」
 お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の埃《ほこり》のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。慾得《よくとく》のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する我儘《わがまま》な反抗心が、彼女の頭脳《あたま》をそうも偏傾《へんけい》せしめた。何のために血眼《ちまなこ》になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に沁拡《しみひろ》がって来た。
 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた梅雨時《つゆどき》の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、淡墨《うすずみ》で刷《は》いたように、水霧に裹《つつ》まれて、目近《まぢか》の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を滴垂《したた》らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような躑躅《つつじ》が、古風の屏風《びょうぶ》の絵にでもある様な鮮《あざや》かさで、咲いていたりした。水がその巌間《いわま》から流れおちていた。
 深い渓《たに》や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は幾度《いくたび》となく高原地の静なステーションに停《とど》まった。旅客たちは敬虔《けいけん》なような目を側《そば》だてて、山の姿を眺めた。
 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。
 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。糠《ぬか》のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。

     百十二

 目ざす町
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