、まだ時々|店頭《みせさき》へ来て暴れたり呶鳴《どな》ったりする狂女が、巣鴨《すがも》の病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。
全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から鉋屑《かんなくず》や木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。
近所の人だちの願出《ねがいいで》によって、警察へ引張られた彼女が、梁《はり》から逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。
「水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは確《たしか》に狂気《きちがい》です」
責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。
「私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ」
お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、小遣《こづかい》をくれたりして頼んだ。
「多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、偶然《ひょっ》として良人《うち》が帰って来たら、巧《うま》い工合に話しておいて下さいよ。前《せん》に縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね」
お島は顔を赧《あか》らめながら言った。
「可《よ》ござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし」
その男はそう言って潔《きよ》く引受けたが、胡散《うさん》な目をして笑っていた。
「真実《ほんとう》にわたし恁《こ》ういう人があるんです」
お島は終《しま》いにそれを言出さずにはいられなかった。
「けどこれだけはあの人には秘密ですよ」
百十一
博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを拵《こしら》えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。
四五年前に、兄に唆《そその》かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の果《み》をでも偸《ぬす》みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の頭脳《あたま》を曇らした。
汽車の通って行く平野のどこを眺めても、昔《むか》しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して
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