その男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。
「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」
 お島は話ぶりなどに愛嬌《あいきょう》のあるその男の傍にすわっていると、自然《ひとりで》に顔を赧《あか》くしたりした。黒子《ほくろ》のような、青い小《ちいさ》い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な憧憬《しょうけい》をそそった。
「いくつの時分さ」
 お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、猥《みだら》な目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、204−3]《みは》った。男はえへらえへらと、締《しまり》のない口元に笑った。
「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」
「その女はどうしたの」
「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう疾《とっく》のむかしに忘れっちゃったんで……」
 暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ頭脳《あたま》に残っていた。
「そんな薄情な男は、私は嫌《きら》いさ」
 お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を蕩《とろ》かすような不思議な力をもっていた。
 蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に耽《ふけ》った。

     百十

 小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、初夏《はつなつ》のある日の朝であった。
 病院で躯《からだ》の療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の頭脳《あたま》に色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか朧《おぼろ》げに抱《いだ》いていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。
 そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。
「あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを質《ただ》そう」
 お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。
 一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも
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