やった。
 女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。
「わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください」
 女はそこを逐攘《おっぱら》われると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように其処《そこ》らをうろうろしていた。
「そっちに言分があれば、此方《こっち》にだって言分がありますよ」
 亭主から頼まれたと云って、四十|左右《そう》の遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその談《はなし》から手を引かしめてしまった。顔利《かおきき》であった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして了《しま》うことができた。

     百九

 親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに逐返《おいかえ》したきりになっている、父親を悦《よろこ》ばせに行った頃には、彼が留守になっても差閊《さしつか》えぬだけの、裁《たち》の上手な若い男などが来ていた。
 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間服《あいふく》の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
 自分でも店を有《も》ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世帯《しょたい》を畳んで、また職人の群へ陥《お》ちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪刀《はさみ》を下《くだ》そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹《ひ》いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
 彼はそう云って、どんな忙《いそが》しい時でも下等な仕事には手をつけることを肯《がえん》じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
 お島も躯《からだ》の弱い
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