たときには、彼女の鬢《びん》がばらばらに紊《ほつ》れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。

     百七

 二人が階下《した》へおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、可恐《おそろ》しいものに触れるような気がして、絶えて良人《おっと》の側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。
「あなたは別に女をもって下さい」
 お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。
「そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない」お島はそうも考えた。
 産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度|店頭《みせさき》へ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵|工廠《こうしょう》の方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。
 小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、裏店住《うらだなずま》いをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。
「あの女はどうしました」
 お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は食物屋《たべものや》などに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり身装《みなり》などを崩しているのであった。
「いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、呶鳴込《どなりこ》まれたらどうするんです」
 小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って窘《たしな》めたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。
「あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ」
 小野田はそう言って笑っていた。
 二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。
「どこへ行ったえ」
 お島は何のことにも能《よ》く気のつく順吉に、私《そっ》とたずねた。
「白山《はくさん
前へ 次へ
全143ページ中135ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング