で町を疾走するときの自分の姿に憧《あこが》れているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。
「少しくらい体を傷《いた》めたって、介意《かま》うもんですか。私たちは何か異《かわ》ったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ」
 お島はそう言って、またハンドルに掴まった。
 朝はやく、彼女は独《ひとり》でそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛靄《もや》の顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に孕《はら》んで、草の実が淡青く白《しろ》い地《じ》についた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに覗《のぞ》いている顔が見えたりした。土堤《どて》の小径《こみち》から、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。
「おそろしい疲れるもんですね」
 一月《ひとつき》ほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を店頭《みせさき》へ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。
「須田町から先は、自分ながら可怕《おっかな》くて為様《しよう》がなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば急度《きっと》平気になれます」お島は自信ありそうに言った。[#「言った」は底本では「言つた」]

     百五

 忙《いそが》しいその一冬を自転車に乗づめで、閑《ひま》な二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを厭《いや》がっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。
「……毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、余程《よっぽど》毒なもんですね」
 お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで真《ほん》の外面の傷害に過ぎないらしかった。
 その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。
 そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、切放《きれはな》れの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を利《き》きあう若い医師が、二人も三人もできた。
 段々|肥立《ひだ》って来た、売色《くろうと》あがりの細君の傍で、お島は持って行った花を花瓶《かびん》に挿《さ》したり、薄くなった頭髪《あたま》に櫛《くし》を入れて、束
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