れた、二つ折小形のその広告札を、羅紗《らしゃ》の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く出入《ではいり》する学校の門の入口に立った。
「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。
「私《わたくし》どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に……スタイルも極《ごく》斬新《ざんしん》でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を惹着《ひきつ》けた。
「安いね」
「洋行がえりの洋服屋だとさ」
学生たちは口々に私語《ささや》きあった。
「おいおい、引札を撒《ま》くことは止めてもらおう。此方《こちら》ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」
門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を煩《うるさ》がって、彼女を逐攘《おいはら》おうとした。
お島は時とすると、札《さつ》を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。
「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」
事務員はそう云って、彼女の出入《しゅつにゅう》に黙諾を与えてくれたりした。
広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。
時には一つの学校から、他の学校へ彼女は腕車《くるま》を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と劇《はげ》しい競争を試みることに、深い興味を感じた。
小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、化粧《おつくり》をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、漸《ようや》く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に喰《く》っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして小《ちいさ》いしなやかな足に、踵《かかと》の高い靴をはくと、自然《ひとりで》に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の羞恥《しゅうち》も億劫《おっくう》さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。
朝おきると、懈《だる》い彼女の体が、直《じき》にそ
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