い今の家を一思いに放擲《ほうりだ》して了《しま》いたいような気分になっていた。
「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規|蒔直《まきなお》しです」
 ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている羅紗《らしゃ》の仲買などに、お島は投出したような棄鉢《すてばち》な調子で言っていた。

     九十九

 本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の可也《かなり》な店つきにすると同時に、棚《たな》に羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。
 愛宕《あたご》時代に傭《やと》ったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の懐《ふとこ》ろには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き創《はじ》めるのに多分の興味と刺戟《しげき》とを感ずる彼女は、際《きわ》どいところで、思いもかけない生活の弾力性を喚起《よびおこ》されたりした。
「面倒ですから、材料も私《あっし》の方から運びましょうか」
 父親の縁故から知っている或|叩《たた》き大工のあることを想出して、そこへ駈《かけ》つけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を嘱《たの》んだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。
「そうしてもらいましょうよ。私達は材料を詮議《せんぎ》している隙《ひま》なんかないんだから」
 材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。
「どうです、訳あないじゃありませんか」
 大工が仕事を初めたところで、釘《くぎ》をすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智慧《ちえ》を欠かなかった。
「これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい貰《もら》いに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう」
 お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に脊負《しょ》いださせた蒲団《ふとん》に替えた、少《すこし》ばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの代物《しろもの》であった。
「乗るか反《
前へ 次へ
全143ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング