歓楽とに憧《あこが》るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。
 一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、紛紜《いざこざ》の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから洩聞《もれき》いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。
 それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は定《きま》っていないまでも、どこかに自分が真実《ほんとう》に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え渇《かつ》えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧憬《あこがれ》と不満とが、沁出《しみだ》さずにはいなかった。
 お島はそれからそれへと、※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2−5−29、170−6]縁《つて》を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、動《と》もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。
「お前さんは真実《ほんとう》に好かんよ」
 肉体の苦痛を堪《た》え忍ばされたあとでは、そうした男に対する反撥心《はんぱつしん》が、彼女の体中に湧《わき》かえって来た。
 根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に嫌《きら》いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。
「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」
 お島はそう言って、熱心に頼んだ。
「笑談《じょうだん》でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」
 上さんはお島の言うことが、総《すべ》て虚構であるとしか思えなかった。

     九十二

 そこへ引越して行ったのは、その頃開かれて
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