はないんですね」
「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」
小野田は、お島の投遣《なげやり》なのを牾《もどか》しそうに言った。
「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの御母《おっか》さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」
「それもお前が下手だからだよ」
小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。
八十九
小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は擽《くすぐ》ったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を揶揄《からか》ったり、嫂《あによめ》と高声《たかごえ》で話したりしていた。
「家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、幾度《いくたび》家を出たり入ったりしたか知れやしません」
母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って聴《きか》せていたが、彼女の目には、これまでお島が干係《かんけい》した男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、口髭《くちひげ》などに威のある彼のがっしりした相貌《そうぼう》は、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は切《きり》たての脊広《せびろ》などを着込んで、のっしりした態度を示していた。
お島は自分の性得《しょうとく》から、N――市へ立つ前に、この男のことをその田舎では一廉《ひとかど》の財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその意《つもり》で、母親に口を利いていた。
「この人の家は、それは大したもんです」
お島は母親を威圧するように、今日も皆《みんな》が揃《そろ》っている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。
「いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので」
母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。
お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の狡黠《わるごす》い態度も蔑視《さげす》まれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。
嫂は、この四五年の良人《おっと》
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