物《しろもの》であった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。
「こんな際《きわ》どいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります」
 お島はその時もそう言って、自分の気働きを矜《ほこ》ったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。
 がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は裁板《たちいた》の前に坐って、縫目を熨《の》すためにアイロンを使いはじめた。
「ふむ、莫迦だね」
 お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優《まし》だろう」
「生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土弄《つちいじ》りをして暮しているじゃないか」
「ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない」
「お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得《とく》は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、※[#「※」は「しんにょう+向」、第3水準1−92−55、162−10]《はるか》に悧巧《りこう》なんだ」
 小野田はいつもお島に勧めているようなことを、また言出した。
「意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない意《つもり》だからね」
「だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ」
 仕事が一と片着け片着く時分に、二人はまたこんな相談に耽《ふけ》りはじめた。

     八十八

 上海《シャンハイ》へ行くつもりで、N――市へ立つ前に、一度|顔出《かおだし》したことのある自分の生家《さと》の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、更《あらた》めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい両親《ふたおや》の機嫌《きげん》を取りに行ったりしていた。
「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」
 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり植《うわ》っている母屋の方の庭から、
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