り月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して――多少|怒《いかり》の色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。
「どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ」
 人に対する反抗と敵愾心《てきがいしん》のために絶えず弾力づけられていなければ居《い》られないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり勝矜《かちほこ》ったように言った。
 部屋にはもう電燈がついて、その晩の食物《たべもの》を拵《こしら》えるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、狎々《なれなれ》しい口を利くような間《なか》になっていた。
「それでミシンはどうしたんです」
「それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ」
「ふむ、悪い奴だね」お島は首を傾《かし》げた。「畜生《ちきしょう》、私を怨《うら》んでいるんだ。だがミシンがなくちゃ為様《しよう》がないね」
 飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、明朝《あした》届いたとき、二人は漸《やっ》と仕事に就くことができた。

     八十六

 住居の手狭なここへ引移ってから、初めて世帯《しょたい》を持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。
 川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、涼気《すずけ》の立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な人寄場《ひとよせば》などへ入って行った。
 行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、棄値《すてね》で売ったり又は著崩《きくず》したりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり纏《まと》まった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。
「己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか」
 着ものなどに頓着《とんじゃく》しない小野田
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