厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。
 その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。
「店が閑《ひま》でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」
 小野田は言出した。
「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。
「己《おれ》たちが自分の仕事をするので、それも気に加《くわ》んらしい」
「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で冷笑《あざわら》った。
「出ましょう出ましょう。言われなくたって、此方《こっち》から出ようと思っていたところだ」

     八十五

 翌日朝|夙《はや》くから、お島はぐずぐずしている小野田を急立《せきた》てて家を捜しに出た。
「また何かお前が大将の気に障《さわ》ることでも言ったんじゃないか」
 小野田は昨夜《ゆうべ》も自分たちの寝室《ねま》にしている茶《ちゃ》の室《ま》で、二人きりになった時、そう言ってお島を詰《なじ》ったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。
「私があの人に何を言うもんですか」お島は顔をしかめて煩《うるさ》そうに応答《うけごたえ》をしていたが、出る先へ立って、細《こまか》い話をして聞かす気にもなれなかった。
「それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか」
「でも何か言ったろう」
「煩《うるさ》いよ」お島は眉《まゆ》をぴりぴりさせて、「お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ」
「だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ」
「ふむ。私よりかお前さんの方が、余程《よっぽど》間抜なんだ。だから川西なんかに莫迦《ばか》にされるんです。もっとしっかりするが可《い》いんだ」
 それで二人は半日ほど捜しあるいて、漸《やっ》と見つけた愛宕《あたご》の方の或る印判屋の奥の三畳|一室《ひとま》を借りることに取決め、持合せていた少《すこし》ばかりの金で、そこへ引移ったのであった。
 そこは見附《みつき》の好い小綺麗《こぎれい》な店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばか
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