気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの貸借《かしかり》にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。
「そんなに吝々《けちけち》しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」
 それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹《ごうはら》であった。
 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、辛々《からがら》そこを立ったのであった。
 一日込合う暑い客車の瘟気《うんき》に倦《う》みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。
「どこへ行ったものだろうね」
 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に蘇《よみが》えったとき、お島はそこに跪坐《しゃが》んでいる小野田を促した。
 前《せん》に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の遣《やり》っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。

     八十一

 不安な一夜を、芝口の或|安旅籠《やすはたご》に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日|彷徨《ぶらつ》いていた。
 最後に本郷の方を一二軒|猟《あさ》って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、湯島《ゆしま》天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。
 漸《ようよ》う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵《さく》のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や銀杏《いちょう》の梢《こずえ》ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇《うすぐら》い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横《よこた》わっていた。二人は仄暗《ほのぐら》い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦《や》け疲れた二人の顔に心持よく戦《そよ》いだ。
 水のような蒼い夜の色が、
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