て溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「そんな事を言ったって、今更この商売が罷《や》められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。
職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。
「私《あっし》は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。羅紗《らしゃ》屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の成立《なりたち》を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」
職人は興奮したような調子で言った。
「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」
「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は莫迦《ばか》に高いものを着せられて、職人はお店《たな》のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ嘘《うそ》です」
「ふむ」とお島は首を傾《かし》げて聴惚《ききほ》れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている悧巧《りこう》者のように思えて来た。
「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は冷笑《あざわら》った。
「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」
お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。
「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、141−10]《みは》った。
「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」
お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や天麩羅《てんぷら》で、男達はやがて飲《のみ》はじめた。
七十六
そんな噂《うわさ》がいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が遽《にわか》に景気づいて来た。
月島で幅を利《きか》していたその請負師の家へ、お島は新調の著物《きもの》などを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、茶《ちゃ》
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